バーディン広場

Quảng Trường Ba Đình

 
 撮影:2014年2月10日

バーディン広場は、240の緑色の正方形の芝生の間に散歩道が造られています。寝転びたい気持ちになるぐらい、いつも芝がきれいに手入れされています。日中はこの広場を歩くことを止められることもありますが、日が暮れると、人々が集い、ウォーキングや太極拳などをしている人や友人と語り合っている光景を目にします。

この場所は、フランス植民地以前にあったハノイ城の西門付近にあたります。19世紀末フランスがハノイ城を破壊した後、この一帯を整地してここにフランス人司祭プギニエール(Puginierの名をつけた公園を造りました。今の形状とは異なり、ヨーロッパのロータリー(円形交差点)のような公園でした。そしてフランスから独立後に「バーディン広場」と改名されました。この改名については、次のような由来があります。1873年にハノイがフランスによって占拠された当時、ハノイから南にあったタインホア省(Thanh Ho)に、ミーケー(M Khê)、トゥォント(Thượng Th)、マウティン(Mậu Thnh)という三つの村があり、それぞれの集会所が近接して建てられていました。1886年にフランス軍がこの地域に侵略してきたとき、村人達は集会所を拠点として激しく抵抗しました。この史実を後世に残すべく名付けられました。バー(Ba)は3、ディン(Đìnhは集会所を意味しています。現在、タインホア省のガーソン県(Nga Sơn)にバーディン社という地名があります。(社(サー;xとはベトナムの行政区分の名)

1945815日、日本が第2次世界大戦に敗北したことによって、一時期ベトナムを支配していた国がなくなりました。ベトナムは民族独立というその千載一遇の機を逃すことなく、「ベトナム民主共和国」臨時政府を樹立し、ホーチミンは国家主席となりました。そして約2週間後の9月2日、このバーディン広場は独立宣言の歴史的な演説の場となりました。

独立宣言の草案は、ホーチミン一人でハノイ旧市街の民家(ハンガン通り48番)にこもって練り上げました。その宣言は、「すべての人間は生まれながらに平等である。彼らは創造主によって一定の奪い難い権利を付与され、その中には生命、自由、および幸福の追求が含まれる。」という、皮肉にもその後戦う相手となるアメリカ合衆国の「独立宣言」の一文から書き始めています。

バーディン広場で群衆を前にした55歳のホーチミンは、人々を扇動するような言葉からではなく、「皆さん、私の声が聞こえていますか?」と語りかけて演説を始めました。そしてベトナムの独立を宣言したとき、広場にはきっと歓呼の声が響き渡ったことでしょう。この日から、ホーチミンはベトナム国民、敵国、同胞の各国の首長、世界中の人々に向けてベトナム独立の正当性を説く代弁者となり、祖国を救うために侵略者が撤退するまで戦い続けると訴え続けました。国民はその言葉に共感して耐えられないような犠牲をも耐え、ホーチミンとともに勝利を信じ、突き進もうと覚悟を決めたのではないでしょうか。この反仏抗米独立戦争は、1975430日のサイゴン解放の日まで続きました。そして1976年に南北が統一、「ベトナム社会主義共和国」が成立しました。



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