ベトナムの仏教

  

現在ベトナムでは、国民の約70%が仏教徒です。全国各地に14,353の寺院があり、僧尼は26,268人います。(『覚悟75号』1994P.31ベトナム仏教教会の統計より)


 <日本と同じ大乗仏教>

ベトナムの仏教は日本と同様に中国から伝わった大乗仏教です。でも実際にお寺に行ってみると大分違う感じを受けます。それはベトナムの仏教が禅宗、密教、浄土教に道教、さらに民間信仰を混ぜ合わせたものだからです。多くのお寺の本堂が「前神後仏」になっていて、手前の部分には道教の神やヒンドゥーの護法神、土地神や職業神も祀られていることがこの実態を物語っています。 


<仏教の伝来と発展の歴史>

ベトナムの仏教伝来は、北部では2世紀に遡るようですが、仏教が中国でその地位を確立した45世紀以降に政治支配と一緒に普及されました。これが北宗(大乗仏教)で、初期には禅宗の色彩が濃厚だったようです。一方南部には、少数の南宗(インド・スリランカを経て東南アジアに伝わった上座仏教)が見られます。

10世紀に北部ベトナムが中国の支配を脱すると、仏教は国教として重んじられました。ハノイの北東に位置する現バクニン省一帯は当時の一大仏教センターだった名残を今に留めています。ベトナム最古の阿弥陀座像があるファッティック寺もその一つです。特にリー()朝時代(10101225)にはたくさんの寺や塔が建てられています。

リー朝に続くチャン朝の合計400年余という長い年月は、ベトナムが初めて国造りを模索していた時代でした。中央政権の力が必ずしも強固でなかったこの時代こそ、ベトナムの仏教が主導的な役割を果たした黄金時代だったと言われます。そのため、この時代の歴代皇帝の多くは、敬虔な仏教徒でした。

しかし、レー(黎)朝になると朝廷では儒教が主導権を握り、仏教は国教から村落宗教へと後退していきました。こうした中で15世紀までにベトナムの仏教は道教、儒教との混合を強めていきました。


<仏領時代>

フランス植民地時代に入ると、キリスト教(カトリック)が保護され普及されていきます。ハノイではいくつかの仏教寺院が破壊され、教会や植民地政府の建造物に替えられていきました。ホアンキエム湖西側のニャートー通り付近は、当時、仏教徒にとって神聖な場所と考えられていました。中でも1056年にリー・タイントン(李聖宗)が建立したバオティエン(報天)と頂を青銅で覆った高さ40mの報天塔は貴重なものでした。この塔は15世紀に中国・明の軍隊によって破壊され、青銅は武器を造るために使われたそうです。報天寺はその後も、ベトナム人の信仰の拠り所でしたが、1883年フランス植民地政府によって取り壊され、この跡地に5年の歳月をかけて建てられたのがハノイ大教会(聖ヨセフ大聖堂)です。

1920年代になると、有志の僧尼、信徒が戒律や教義を見直す仏教改革を進めていきます。1951年にはフエで「全国仏教大会」が開かれます。
 

<ベトナム戦争 〜 南北統一 〜 ドイモイ以降>

1963年、カトリックを優遇するゴー・ディン・ジェム政権に対し南ベトナムの仏教徒による反政府運動が高揚します。そして、同政権の仏教弾圧に抗議し、僧侶が焼身自殺をしています。1975年の南北統一後、198111月ハノイでベトナム仏教教会が設立され、その本部がハノイ市のクアンスー(館使)に置かれました。

ベトナムでは憲法で信仰の自由を保障しています。しかし1986年にドイモイ(刷新)政策が出されるまでは、仏教も含め宗教活動に対しては様々な許認可を要し、僧尼の教育も政府宗教委員会の監督を受けたり、信仰活動もいろいろと制約を受けていました。こうした規制は1990年以降緩和され、1993年のテト(旧正月)にドー・ムゥォイ共産党書記長が鎮国寺で焼香し、またニンビン省のファッジエム教会を訪れたことが初めてメディアに報道されました。それが事実上の宗教解禁宣言となったようです。



参考資料: 『歩こうハノイB チュックバック湖周辺を歩こう』 ハノイ歴史研究会 2008
 



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