緑豊かなハノイの街でも、ひときわ雄大な木立ちの群れる一画が文廟です。文廟とは孔子廟のことです。文廟の名は739年、唐(中国)の玄宗皇帝が孔子に「文宣王」という敬称を贈ったため、孔子廟を文廟とも呼ぶようになりました。レンガ塀の続くヴァンミエウ(文廟)通りからクオックトゥーザム(国子監 Quốc
Tử Giám)通りに入ると、左手に文湖が、右手には、文廟門があります。 文湖は、湖に沿った遊歩道のある美しい公園となっています。ほぼ八角形をした湖には、キムチャウ(Kim Châu)島という小島が浮かび、ここにはかつて文湖堂とよばれる建物があったそうです。そこから、別名「輝くホールの池」とも呼ばれ、文廟ゆかりの文人達が詩文を披露するなどの親睦を深めた場所であったといわれています。
15世紀の古地図『洪徳版図』を見ると、中央付近に「国子監」と書かれています。「国子監」は、1076年に文廟の後ろに建てられた王族や貴族の子弟や官僚が学んだ学校のことです。この地図から「文廟-国子監」は大湖と呼ばれる巨大な湖に囲まれた島に
ハノイの文廟は1070年、李朝第三代皇帝リー・タイントン(李聖宗 Lý Thánh Tông)により建立されたと言われています。当時は、仏教・道教・儒教の「三教同源」で、中でも仏教勢力がとても強大でした。しかし、国号を「大越」とし中国の宋朝臣下の君主国、つまり越人として初めて国王と認められ中国との関係が緊密になった時期でもありました。そのため、宋朝の進めていた儒教の祖である孔子を祀る廟を建てたのではないかと思われます。 ハノイの文廟は、高等教育機関として重視されてきたという特徴から、たとえば『洪徳版図』では、「国子監」とのみ併設された教育機関名で記されています。 現在の文廟は、国子監通り沿いに幅約60m、奥行き約300m、後ろの国子監側は少し広がり約75m幅の方形型で、ちょうど南の文湖に向き、レンガ塀で囲まれています。その中は、孔子の故郷(中国山東省曲阜)にある「孔子廟」を模して五区分に分かれ、各区分には必ず門をくぐって入ります。17世紀頃のハノイの文廟は、国子監と、文廟を含む総合施設をあわせた三区分しかありませんでしたが、19世紀の阮朝時代に五区分に改修されました。「孔子廟」が五つに分けられた理由は諸説ありますが、中でも自然界を木火土金水の五つの要素に分けた中国古来からある思想の一つが挙げられます。
敷地の左右にあるのは、1771年に建てられた「下馬(Hạ Mã)」の碑です。左右の碑の間を通行する際、たとえ王であってもこの廟に敬意を表して馬を含めたすべての乗り物から降りなければなりませんでした。入口には、長柱と短柱が一対ずつ立てられ、長柱の上に獅子のように見えるものが互いに向き合っています。これはリー(Ly)といい、善悪を判断できるといわれる想像上の獣です。短柱の上には、数羽の鳳凰が座っています。これらの柱は対連(漢詩)になっており、その内容の一部を紹介しますと「東西南北すべてはこの道に通じる」「教義はこの道のようである。人はこの扉を開けなければ中に入ること適わず」などがあります。「下馬」の碑と4本の柱は、俗世の境界と神聖なる文廟への入口として立っています。
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