文廟 第三区
第三区の門は、ハノイのシンボルといわれている奎文閣です。1805年グエン(阮)朝時代に建立されたもので、2階には四方に奎星(けいせい)を象徴したといわれる丸い窓があります。「奎星」は、文学をつかさどる星といわれることもあり、ここでは天上の孔子をさし示していると思われます。 奎文閣をくぐると、眼の前にはティエンクアン(天光)という大きな方形型の池があります。日光を池面に反射させて碑文を照らし、その栄光を示す意味がこめられています。
池の両側には二つの区域に分けられて82の石碑『進士題名碑』が並んでいます。進士とは、官吏登用試験である科挙に合格した人のことです。 『進士題名碑』は1990年代になって風雨を避けるために作られた瓦屋根の下に、亀趺(きふ:亀形の石台)に乗って置かれています。ベトナムでは亀に関する言い伝えが多くあります。王が金亀の爪でできた魔法の弩(いしゆみ)ですべての敵を倒したとか、のちに王となるレー・ロイ(黎利Lê Lợi)が金亀から借りた剣で中国を打ち負かしたとか、亀は龍の仮の姿で神聖なものとされているなどの話があります。 碑には進士の名前と出身地が刻まれています。これらは15世紀から約3世紀にわたる歴史や彫刻芸術の資料としても大きな価値を持っています。作られた年も様々で亀の顔はそれぞれ少し違った顔つきをしています。2010年に世界記憶遺産に登録されて以降、碑に触れることはできませんが、それまでは、毎年
向かって右側の列中央の建物の中には一番古い1442年に合格した進士の碑があります。
ある時期にまとめて多くの碑を建立したり、紛争のときに碑が壊されたり、政情や経済が不安になった時期は建てなかったりしたこともあり、はっきりしていません。石碑の数も過去の科挙の記録と照らし合わせて計算した数より30ほど碑が足りないそうです。現在も列の中に置かれていない石碑の残骸が奎文閣近くの左右の奥に置かれています。 <ベトナムの科挙> 試験内容や期間は、その時代ごとに変化してきました。15世紀になって試験は3年毎に行うこととなり、合格者も増えました。その理由としてはレー・タイントンがチャンパとの戦いに勝利し領土が拡大したことで、その土地を管理する大勢の役人の確保という意図があったのではといわれています。 <会試> 試験に通らなかった者も国家の知識階級者とみなされたそうです。なかには故郷の私塾の先生になった人もいました。 余談ですが、科挙は男性しか受けられませんでした。しかし、莫朝(1527//1592~1679)の末頃、男性に変装をしてまで受験をして、進士になった阮氏という女性が一人いたそうです。その女性はその後、チン(鄭 Trịnh)氏の皇太子の教師となりました。亡くなったのちは、当時力を握っていたチン氏によって祀られたそうです。 ハノイでは、1075年から1779年の間に約2300人が進士の資格を授与されました。グエン朝になってからは首都がフエに移ったため、科挙の試験もフエで行うようになりました。 ベトナムの科挙は、1905年に中国で科挙が滅んだのちも続いて1919年に廃止されました。ベトナムは、東アジア世界で最後に科挙制度を廃止した国です。 <廷試> 第一のグループ 主席 状元(じょうげん) (Trạng nguyên) 「状元」の「状」は合格者名簿のことで、「元」は“はじめ”という意味があり、「状」の先頭に名前が書かれるので状元と呼ばれるようになったそうです。 「榜眼」は状元の両眼のように左右に分かれて立つ者という意味で次席と第三席を指しましたが、のちに次席だけを指すようになりました。次席だけが榜眼になったとき、第三席を「探花」と呼ぶようになったそうです。探花の名は、唐(中国)の時代に、進士の最年少者に、宮中の牡丹園から最も美しい牡丹を探してくるよう命じたことが始まりです。 郷試、会試、廷試の全ての試験で首席になった者は「三元」と呼ばれました。マージャンの役満の「大三元」の由来とされています。
文廟トップページへ 文廟第四区へ |
||||||||||||||||
ハノイ歴史研究会トップページへ | ||||||||||||||||
このページのトップへ |
||||||||||||||||
Copyright (c) 2011 Hanoi Rekishi Kenkyukai All Rights Reserved |