文廟

第四区

 
 孔子像(大聖殿内)
撮影:2011年7月28日

 

第四区、ここがいわゆる文廟です。文廟とは孔子の霊を祀る建物のことで、孔子廟、孔廟とも言われます。孔子の死の翌年、孔子の故郷である曲阜(中国山東省)の旧宅に建てられたのが始まりです。ここハノイの文廟は、1070年、李朝第三代皇帝リー・タイントン(李聖宗 Lý Thánh Tông在位1054-1072)が建立したと言われています。

 <大成門>

大成門の門柱の足下を見ると、赤と白に塗られた狛犬のようなものが柱を支えています。これはゲー(nghề)と呼ばれる架空の動物で、沖縄で見られるシーサーに似た守り神です。


 
 大成門
撮影:2012年2月20日


      
 大成門 柱の足下の
ゲー(nghề
 撮影:2012年2月20日

まず広い庭があります。大拝の庭といわれ、祭祀など行われましたが、今ではこの広いスペースを利用していろいろなイベントが催されます。広場の両側に建物がありますが、以前は国子監の講師であったチュウ・ヴァン・アン(朱文安Chu Văn An)や孔子の弟子たち、またベトナムの有名な儒学者の像が祀られていました。しかしフランス占領下時代に壊され、1953年に建て替えられたものの、今では観光客のためのお土産を売る店に変わってしまい、昔を偲ぶことはできません。

広い庭を進むと大拝の回廊を挟んで左脇に“奉命敬立”、右脇に“庚辰季春”と書かれた石柱があります。建立された時期などを意味しています。

     
「大拝の庭」と「大聖殿」
撮影:2012年2月20日
 
 「庚辰季春」と記された小さな石柱
撮影:2008年12月24日


 <拝堂>

拝堂には立派な祭壇があります。その祭壇には龍、麒麟、鳳凰など架空の動物や筆立てなどの彫刻が施されています。漢字も見られますが、字体は篆書(てんしょ)が使われています。その祭壇の上に目を向けると“萬世師表”と書かれた立派な題額が掛けられています。 “萬世師表”とは<永遠に人々の模範を示す先生>という孔子を指す言葉です。他にも”集大成“、”徳参天地“、道冠古今”、“福斯文”と書かれた額題がかけられています。

拝堂と大聖殿の間のわずかな渡り道の両脇に、うっかりすると見逃してしまいそうな小さな四角い石柱があります。よく見ると硯の形をしています。文廟内の説明板によると、硯の石柱は以前4つあり、すべて国子監の中にあったようです。文房四宝(筆、紙、硯、墨のこと)の一つである硯が勉学に励むための象徴としておかれていたのでしょうか。

 

 
 拝堂の祭壇と
「萬世師表」の題額
撮影:2011年7月28日



 
 硯の形をした柱の一部
「太学堂硯」と刻まれている。
撮影:2009年3月13日

<大聖殿>

高い敷居をまたいで大聖殿の中に入ります。敷居が高いためにまたぐと体が前に自然に倒れ、まるで中央に堂々と鎮座する孔子像に挨拶をしたかのようになります。これは故意に敷居を高くすることで孔子への畏敬の念を表しているといわれています。さて、その正面の孔子像を向いて座っている4体の像を四配といいます。四配とは、孔子廟に祀られる孔子の四人の高弟を指します。左が孟子と曾子(曾参)、向かって右側が顔子(顔回または顔淵)、子思です。そのさらに両脇奥に石碑が5基ずつありますが、十哲(じってつ)を意味しています。十哲とは、孔子の弟子の特に優れた十人の賢者を指します。徳行に優れた者、言語に優れた者、政治に優れた者、文学に優れた者の4つに分類されています。そのため四科十哲とも孔子十哲とも呼ばれています。


 
 孔子
撮影:2010年2月26日


   
 曾子  孟子  子思  顔子
撮影:2012年2月20日   


 
 十哲の石碑
撮影:2012年7月9日


孔子を中心にその弟子たちが占める大聖殿は、儒教の神様が鎮座する威厳を感じる場所となっています。今日のようになるまでには幾多の修復、増築が繰り返されたとはいえ、1070年の李朝のころはまだ仏教が主流であったにもかかわらず、なぜ儒教の祖である孔子を祀る文廟を建立したのか、諸説あります。1070年に小さな祭壇だけが建てられ、孔子廟として建立されたのは1156年ではないかという説、国学所つまり皇太子が学ぶ場所として建てたのが目的で、本来の文廟の意味をもたないものだったという説もあります。

しかし、ここが勉学に関わる場所であることには間違いないようです。受験シーズンともなると、合格祈願にたくさんの学生が訪れ、孔子の前で手を合わせ、お供え物をする姿は、昔も今も変わらぬ光景ではないでしょうか。

 

<孔子>

紀元前551479年。中国春秋時代の学者、思想家。魯の国に生まれ(現在の山東省曲阜)幼少期に相次いで両親を失うも、苦学の末に学問を修めました。性格も温厚で大変聡明だったようです。また、身長が188センチあり、長人と呼ばれていたという記載が残っています。魯の国に仕えましたが、自分の理想とする政治が受け入れられず国政に失望、その後弟子たちと共に諸国遊説の旅にでました。論語はこのときの孔子の言葉や教えを弟子たちが記録した書物です。69歳で再び魯の国に戻り、弟子の教育と著述に専念しました。73歳で亡くなるまでに3千人を超える弟子がいたといわれています。孔子の高弟である四配の中の子思は孔子の孫にあたります。

「子曰く、吾れ・・(中略)・・三十にして立つ。四十にして惑ず。五十にして天命を知る。・・(後略)」は、論語の中にある、孔子の有名な言葉です。

 

<儒教>

孔子の教えから発展した中国の学問、思想。その教えは、人を愛し(仁)、人から愛される人格を持ち(徳)、人々が信じ合い(信)、礼儀を尽くすこと(礼)。これを五常の徳といいます。仁を根本にする政治、道徳を説いたものです。孔子から孟子、荀子を経て、漢の時代に至って国教としての儒教が成立したといわれています。儒教は中国だけにとどまらず、漢字の伝承とともに朝鮮、日本、そしてベトナムに伝わり、それぞれの国に大きな影響を与えました。

 

<四書五経>

儒教で特に重要とされる経典の総称。

論語、孟子、大学、中庸の四書。易経、書経、詩経、礼記、春秋の五経。





 
 撮影:2011年7月28日
撮影:関道子さん

 



 文廟トップページへ

 文廟第五区へ




 

ハノイ歴史研究会トップページへ
 このページのトップへ



Copyright (c) 2011 Hanoi Rekishi Kenkyukai All Rights Reserved



inserted by FC2 system