文廟

Văn Miếu

第五区

  国子監(Quốc Tử Giám

 
撮影:2012年7月9日 

 大聖殿(孔子廟)の裏手が文廟の第五区、ベトナム最古の大学として歴史に刻まれている国子監です。 拝殿(孔子廟)の外側にある細い通路を北に進んでください。左右に小さなガードの石像が立つ「啓聖門」を入ると、そこが国子監です。


          
門衛
撮影:2008年9月24日 
 
啓聖門
撮影:2012年2月20日
 

 1076年、李朝第四代皇帝リー・ニャントン(李仁宗 Lý Nhân Tông 在位1072-1127)によって建立された国子監は、700年以上ここに存在し続けていました。しかし、1946年の抗仏戦争で、ここは完全に破壊され、今、私たちが訪れているのは2000年に「タンロン建都990年」の記念事業として再建された国子監なのです。

 <歴史> 

最初は1076年、漢字のわかる文官を選んで入学させたことがベトナム年代記『大越史記全書』に書かれています。「国子監―文廟」の建立は、当時の国を治める優秀な官僚の養成を目的としていたことがうかがわれます。

 1253年、陳朝の第二代皇帝チャン・タイントン(陳聖宗 Trần Thánh Tông)は全国の儒者に呼びかけて、「国子院」において儒学のテキストを学ばせました。敷地には各棟25の部屋を持つ6棟の寮が建てられ、二人一部屋での寮生活が営まれていたようです。

 15世紀、黎朝になると儒教が中央集権体制を強化するための主導的な理念として広まります。「国子監」の役割は一層高まり、科挙の試験はさらに増え、特にレー・タイントン(黎聖宗 Lê Thánh Tông 在位1460-1497)の時代には3年に一度行われるようになります。

 19世紀初め、フエに都を遷したグエン朝は「文廟―国子監」をフエに建設します。700年余りの歴史を持った建物は、この地域の学校のひとつとなり、後に孔子の父母を祀る神社が建てられましたが、抗仏戦争ですべて破壊されてしまいました。

<建物について> 

 塀に囲まれた広い敷地には、中庭を挟んで左右に細長い建物が一棟ずつあります。昔は東の講堂、西の講堂と呼ばれ、ここで授業が行われていました。現在は事務所として使われているようです。

 
<前堂>

 正面にある「前堂」は文化的な行事を行う場所で、現在は左半分でベトナムの伝統音楽の演奏が行われ、楽器やCDを販売しています。「前堂」を通り抜けて二階建ての建物「後堂」へ入ります。

<後堂>

 一階の中央には「国子監」の教師だったチュウ・ヴァン・アン(朱文安Chu Văn An) の大きな木製の座像が祀られています。その右側には現在の、左側には昔の「文廟―国子監」の模型があり、その違いと当時の様子が忍ばれます。

   
 チュウ・ヴァン・アン
撮影:2012年2月10日
 

 また一階には、当時使われた教材や硯、筆、衣装なども展示されています。教科書は四書、五経、漢詩や古文などが主だったようです。右側の陳列ケースには、1960年代に文廟を訪れたホーチミン氏の写真やベトナム各地の「文廟」の写真も展示されています。

         
 1853年の進士合格者の帽子と
1376年の状元合格者の服
撮影:2008年9月24日
  国士監の学生服
撮影:2012年2月20日
 

 右側の階段で二階に上がります。ここには「文廟— 国子監」の建立と儒教教育、科挙制度の発展に貢献した三人の皇帝の木像が鎮座しています。まず、中央にあるのは1070年に文廟を建立したリー・タイントン(李聖宗 Lý Thánh Tông 在位10541072)、向かって右が1076年、国子監を建立したリー・ニャントン、左は1484年に進士の碑を建立したレー・タイントンです。この建物はベトナムの伝統的な建築によって設計されていますが、中でも太い大きな柱が目につきます。この柱に使われているのはリムの木(鉄木)です。二階のベランダから外を眺めると、美しい屋根瓦が目に入ります。この瓦は、当時官僚が履いていた靴先の形を模したものです。


   
 二階
一番右は、国子監を建立したリー・ニャントン
撮影:2012年2月20日
 

 左側の、一階へ下りる階段の右手の壁に、絵がかけられています。科挙試験の最高峰である進士に合格した者は、帽子と服を与えられ、宴席が設けられて、馬に乗って故郷に錦を飾ることが許されました。このレリーフはその光景を描いたものです。

   
 故郷に錦を飾る行列を描いたレリーフ
撮影:2012年2月20日
 

 

 後堂を出て右に行くと、高さ2.1m、直径0.99mの鐘堂があります。この鐘は2008年に設置されました。反対側には重さ700kgの大太鼓のお堂があります。帰路は、国子監を背にして右手の小道を戻ってください。波羅蜜(パラミツ)の和名もある世界最大の果実、ジャックフルーツを見ることができます。最盛期は夏ですが、1年中実を付けています。

      
 鐘堂 大太鼓のお堂 
撮影:2008年12月24日 

 ハノイ市の中心部にあって、いつも観光客の絶えないメインスポットですが、レンガの塀と多くの木立に囲まれたここにいると、一瞬ですが、バイクの喧噪を忘れ、なぜか気持ちが和みます。李朝が誕生して千年、木陰でベトナムの歴史に触れていただけたらと思います。

  

チュウ・ヴァン・アン
(朱文安 Chu Văn An 1292~1370

  現在のハノイ市の南部、タインチー区の出身。勉学に優れていたにもかかわらず、出世を望まず自宅で塾を開いていたという。遠近から多くの人々が弟子となるため訪ねて来た。チャン・ミントン(陳明宗 Trần Minh Tông)の時代に国子監の教師として招聘され、皇太子の教育にあたった。

 朱文安は清廉剛直な人柄で、不正を行う者に対しては、常に厳しく接した。チャン・ズトン(陳 Trần Dụ Tông)の世になると皇帝は政治に厭き、権力のある臣下が不正を行い世が乱れた。そこで朱文安は皇帝をいさめ、奸臣7人を切るように「七斬疏」という上奏文を捧げたが、聞き入れられなかった。そのため、彼は職を辞して現ハイズオン省(紅河デルタ東部)チーリンに隠遁し、1370年に亡くなった。没後、勅命により文貞公の称号を授けられ、文廟に合祀された。

  文廟の北西の通り、グエン・タイ・ホックと交差してディエン・ビエン・フーまでの道が、チュウ・ヴァン・アン通りである。また、トゥイ・クゥエ通りには進学校として有名なチュウ・ヴァン・アン中学、高校もあり、彼の名声は現在も讃えられている。

 



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