オペラハウス側面 

鎮武観 
Đền Quán Thánh


殿内の様子


    
玄天上帝像
撮影:2011年11月21日
 

殿内に一歩足を踏み入れると、朱と金の鮮やかな色彩におおわれた天井や柱、螺鈿細工の題額や対聯(ついれん)、銅製の燭台、鐘、磬(けい)などの様々な装飾品が一気に目に飛び込んできて、とても華やかな印象をうけます。
これら殿内に置かれている像や装飾品等については、1854年に編纂された『鎮武観録』にその挿し絵とともに寄進した人物や由来が記載されています。

 奥の上殿に入ると、真っ黒な玄天上帝像、その巨大さに圧倒されます。総髪で髪の毛を長く伸ばし、鎧を着けて、黄色い衣をかぶっています。手は悟りを妨げるものを封印する意味の「降魔の印」という訣(けつ)を結んでいます。


 
螺鈿の題額
撮影:2011年11月21日


   
  剣と亀
撮影:2011年11月21日 


下に突いている剣の先には亀、しかしその尾は蛇になっています。これが「玄武」という北の方向を象徴する神聖な動物です。この玄天上帝像、もとは木像でしたが1677年(後レー朝後期)から始まった修復の際、高さ3.72m、重さ4tのこの銅像が鋳造されました。完成には4年の歳月がかかっています。






 
 チュム・チョンの像
撮影:2011年11月21日

この鋳造をおこなったのが、チュックバック湖畔のグーサー村の人々です。前殿に、この銅像を作ったチュム・チョン(Đức Ông Trùm Trong) の胸像が祀られてます。当時の技術水準の高さを今日に伝える貴重な芸術作品といえるでしょう。同時期に作られた鐘は入り口の鐘閣の上にありますが、現在はその音を響かせることはないそうです。





 玄天上帝像の左右にあるのは四大元帥像です。文官と武官として祀られています。『鎮武観録』には、九尾の狐の像がその足下に描かれていましたが、現在はありません。
1823年(グエン朝時代)に「真武観」と改名し、1856年の修築で正殿、焼香亭、拝堂、鐘閣が拡張され、文昌帝君像が後堂に安置されたと記録にあります。科挙の受験者たちの信仰を得ていたのは前述の通りですが、現在はその文昌帝君像も後堂もありません。また、1892年グエン朝第10代タインタイ(成泰)帝の修築時には、玄天上帝像の下に1.5mの台座を加えました。また1905年の修築時の石碑が庭の石碑亭にあり、当時のフランス植民地政権の協力も得ていたことが記されています。

 前殿正面のバット・バオ(八宝)という8本の武器は、権威付けのため置かれています。亀の上に鶴が立っているのは長寿を願うものでタイニン省のベトナム人が寄進しました。下の写真は正面入って右側にある磬(けい)です。グエン(阮)朝第3代ティェウチ(紹治)帝が1873年、お金と玄天上帝像の黄色い衣を寄進したとあります。
 また、前述の物も含め、19世紀に多くの中国人が銅製の燭台や香炉、花瓶、透かし彫りの装飾品などを寄進しました。奥の上殿への扉にはハンガイ通りに住む華僑の名を見ることができます。

 
 8本の武器と鶴
撮影:2011年11月21日


 
 ”紹治2年12月吉日”と刻まれた磬(けい)
撮影:2011年11月21日


 
 撮影:2011年11月21日

総数38に及ぶ螺鈿の対聯、34枚の題額は19世紀のグエン(阮)朝の儒教官僚たちが、それぞれ同じところに作らせて寄進したものです。対聯のひとつに、玄天上帝の聖地であるとされる「武当山」のことが書かれています。その当時、武当山がこのベトナムの地にあたると考えられていたようで、ベトナム人だけでなく、中国からも参拝者が訪れ信仰されていました。もとは、北=中国に対する守りのための鎮武観が、後世その中国人達の信仰をも集めていたことは、その長い歴史を改めて振り返ってみるのに、おもしろい場所と言えるでしょう。





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参考資料: 『歩こうハノイ⑤チュックバック湖畔を歩こうう』 ハノイ歴史研究会 2002 

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