コーロア(古螺)城

Thành Cổ Loa

~ ベトナム現存最古の城址 ~

 
 コーロア城を建てたアンズオン王を祀る神社(Đền An Dương Vương
内城だった位置に建てられている。
撮影:2012年11月18日

コーロアは、ハノイの北、ドンアイン(Đông Anh)県にあり紀元前2,3世紀にあったオーラック(甌貉 Âu Lạc)国の都があったとされています。コーロア城はベトナム現存最古の城跡で、その規模は外城が周囲8㎞と壮大、防御構造も優れていました。かつては310m位の高さの城壁でしたが、現在でも約2mの高さの堤の上に木が植えられた螺旋状の土手が部分的に見られ、当時の名残りをとどめています。


   
コーロア城見取り図(Đền An Dương Vươngに掲示
赤:土塁。3重の城壁であったことがわかる。
水色:水濠
中央の四角い部分(内城)に、現在は寺院などが建てられている。
撮影:2012年11月18日
 
 


   
内城の城壁の名残りの土塁
撮影:2012年11月18日
 
 


   
奥: 城壁の中で最も高さが高く堅固だった中城(中間)の城壁。土塁が今も残る。
手前: 内城との間の水濠
撮影:2012年11月18日
 


   
中城の城壁(土塁)の上
撮影:2012年11月18日
 
 

コーロア城は、ベトナム建国神話上実在と認められているアンズオン安陽An Dương王がこの地に要塞を建造した時現れたというキムクイ(金亀 Kim Quy)と、ミーチャウ(媚珠 My Châu)姫の伝説が有名です。

<築城伝説>

アンズオン王が城を造ろうとしますが、どんなに堅牢に造っても一夜の間に悪霊によって破壊されてしまいます。そこで、アンズオン王は宗教儀式を行い、神の加護を求めます。するとキムクイ(金色の亀)が現れ、悪霊退治の秘法を伝え、ついに螺旋状の城壁で囲まれた城が完成しました。キムクイは王に別れを告げる時、自分の爪を贈り、王はそれで石弓を作りました。それは、たった一本の矢で数千の敵を打ち落とすことができたため、魔法の石弓または亀の石弓と呼ばれました。


<落城伝説>

その頃、チョウダ(趙佗)が中国南部に、ナムヴィエット(南越)国を築きました。そしてチョウダは幾度もオーラック国攻略を試みますが、堅牢な城壁と魔法の石弓に守られたオーラック軍を破ることはできません。そこでチョウダは戦略を変え、息子のチョントゥイ(仲始 Trọng Thúy)とアンズオン王の一人娘であるミーチャウ姫と結婚させ、二国間の和平にこぎつけます。

チョントゥイはオーラック国に住み、妻のミーチャウと仲睦まじく暮らしておりました。ところが、父のチョウダから密令を受けていたチョントゥイは、夫を深く愛し信頼しているミーチャウから石弓の秘密を探りだし、偽物とすり替えたあと、義父アンズオン王の許可をとりつけ、ナムヴィエット国に帰ってしまいます。帰国する時、チョントゥイは妻に次の様に尋ねます。「もし将来両国間に戦が起こったら、どうやっておまえを探し出そうか。」すると夫に何の疑いも持たぬミーチャウは、「その時には、私は鷲鳥の羽根でできた上着を着て、行く先々にその羽根をまいて行くわ。」と答えました。

チョウダはオーラック国侵略戦争を起こしました。オーラック国軍は魔法の石弓の力を過信して何の準備もしていません。ナムヴィエット国軍にコーロアの城壁を囲まれたアンズオン王は魔法の石弓を使いますが役に立ちません。かろうじてミーチャウ姫を馬のうしろに乗せて南へ逃げます。ところがミーチャウのまく羽根で敵は居場所をつきとめ、追っ手は迫ります。海岸にたどり着くと、キムクイが現れたのでアンズオン王は、「なぜ我王国は破れたのだ。」と尋ねました。キムクイは即座に「敵はお前のすぐ後ろだ。」と答えました。アンズオン王はすべてを悟り、剣で、無実を訴えるミーチャウの首をはねたあと、キムクイの後を追って海に入水しました。ミーチャウの遺体は波に流されてコーロアに辿りつき、村人が岸に揚げると大きな石に変わりました。この首の無い人の形をした石がミーチャウとして祀られています。 

一方、チョントゥイは愛妻を失い嘆き悲しんでいました。ある日、かつてのオーラック国の城跡の前にある井戸の所を通りかかるとその水面にミーチャウの顔を見て、思わず井戸に飛び込んで命を落としてしまいました。ミーチャウが流した血は貝に飲まれ、そのあと真珠になったと言われています。この真珠をチョントゥイが身投げした井戸で洗うと更に輝きを増すとも伝えられています。

 

 その後コーロア城は、後リーナムデー(後李南帝 Hậu Lý Nam Đế)の時代(570~602)とゴークエン(呉権 Ngô Quyền)の時代(939~944)の2回、都城とされました。 


オーラック国とナムヴィエット国に関する年代記述は諸説ある。一般的にアンズオン王の時代はBC257208とされているが、司馬遷の「史記」によると、オーラック国はBC208に建国されたとある。滅亡の時期はBC208が通説だが、ベトナムの歴史ではBC179と書かれている。一方チョウダも実在の人物だが、秦の臣下とも漢の将軍とも記述されている。秦の滅亡はBC205、漢の建国はBC202

 


アンズオン王神社(Đền An Dương Vương

     
上左)本殿 キムクイ(金の亀)、アンズオン王が祀られている。    上右)境内
下左)神社内の池   下中央)Nhà Bon Đền Thượngと呼ばれる。石碑が置かれている。   
下右)内城の城壁跡の小高くなった所に木がそびえる。
撮影:2012年11月18日
  


井戸(Giếng Ngọc Cổ Loa

   
 アンズオン王神社の前の池の中央に、丸い井戸がある。
チョントゥイーが身を投げたという伝説が伝えられている。
撮影:2012年11月18日
 



アンズオン王の像

   
石弓を持ったアンズオン王の像
撮影:2012年11月18日
 
 



コーロア亭(Đình Cổ Loa


 
 
上左)コーロア亭の門   上右)コーロア亭
下左)緑の葉で覆われた門の向こうがミーチャウ廟(Am Mỵ Châu)。亭と同じ敷地内にある。
下右)廟に祀られているミーチャウの石像。黄色い衣をまとっている。
ミーチャウ像以外の撮影:2012年11月18日、 ミーチャウ像撮影:2006年12月16日





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ハノイ市内のロンビエンバスターミナル、又はミーディンバスターミナルから路線バスで行くことができます




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三重の城壁があった所に今、樹木が茂っているのがわかる。



 

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