ディン・ティエン・ホアン ~ 天然の要害ホアルーを都に ~
938年にゴー・クエン(呉権)が中国から独立を勝ち取ったものの、その基盤は盤石ではありませんでした。ゴー(呉)朝 最初の王ゴー・クエンが944年に亡くなると、ベトナムは群雄割拠の時代に突入します。12人の族長が競い合ったので、「十二使君の時代」と呼ばれています。この争いの中からディン・ボ・リンが現れ、ベトナムを統一しました。 ディン・ティエン・ホアン(廟号)は本名をディン・ボ・リン(Đinh Bộ Lĩnh 丁部領)といい、ニンビン(Ninh Bình)のホアルー(Hoa Lư華閭)に生まれました。子供の頃は水牛を追い、ガキ大将で、成人してからは、十二使君の一人であった領主チャン・ラム(陳覧、後にチャン・ミン・コン(陳明公)と呼ばれる。)の部下として働いていました。チャン・ラムの死後この勢力の首領となり、十二使君の中で主導権を握ります。彼の傑出した能力に加え、本拠地ホアルーに近い布海口(紅河河口の交易港)で経済の一大拠点を支配していたチャン・ラムと同盟を結んだことが勝因でした。 968年に帝位に就きディン(丁)朝を創立、都をホアルーに移しました。 (呉朝の都はコーロア。) 国号をダイコーヴィエット(大瞿越)とし、970年ベトナムで初めて元号をたて、タイビン(太平)としました。ディン・ボ・リンは中国に依存する勢力を一掃し、ベトナムの歴史上初めて、実質的に国家統一を成し遂げました。首都をハノイ(当時はダイラ(大羅))に置かず本拠地ホアルーに置いたのは、防衛上堅固な地域であったことに加え、ダイラは中国に従属したほうがいいと考える勢力が優勢だったからでした。また、国号の「大瞿越」は「偉大な越」という意味で、ベトナム人の独立国家建設の意気込みが感じられます。後に李朝が1054年に「大越国」と改めるまで使われました。彼は中央や地方の行政の組織を作り、法律を整備し、強力な軍事組織を作り上げました。また、宮廷の規律も厳しく定め、違反したものには極刑を科しました。その一方文化面でもベトナムの伝統芸術に深く関心を持った皇帝でした。 しかし979年、後継者問題に端を発した宮廷内部の抗争から、長男のディン・リエンと共に廷臣によって毒殺されます。この後、ただ一人残された6歳になったばかりのディン・トゥエが帝位につきますが、十道将軍(軍の組織として分けられた軍管区を「道」と呼んだ。)の一人であるレー・ホアン(黎桓)が摂政となり、権力を集中させ、自ら副王と称しました。その後、この機に乗じて中国の宋が侵略してくる気配を察した家来達の推挙により、レー・ホアンは皇帝となり、幼帝は廃されました。レー・ホアンは、自らをレー・ダイハイン(黎大行)と称しました。こうして丁朝は二代で終わったのです。 ディン・ボ・リンには様々な伝説が残っています。『公余捷記』によれば、ディン・ボ・リンの母はある日、大きなカワウソと交わって男の子を生みました。これがディン・ボ・リンです。このカワウソが村人によって殺されると、母はこの骨を拾ってきて、これが父の骨と教えたといいます。ディン・ボ・リンは気性の激しい人で、包囲した敵軍が自分の息子を人質にし、棒に縛り付け、降参しないと殺すと言って脅したところ、「志をもった男子たるもの、子供のために大事をまげられるか」と言って、逆に息子目がけて矢を乱射したので、敵は驚き軍を引き返したといいます。また帝位についてからは、法を人に守らせる手段として城門に煮え立った油の入った大鍋(鼎)と虎の入った檻を置き、守らない者はそれらで処刑するとして、人々に恐れられたということです。かつての都、ホアルーを訪れると、今もディン・ティエン・ホアンとその後を継いだレー・ホアンを祀った神社が残されています。
参考資料:ベトナム歴史の散歩道 その14(ハノイ歴史研究会)
|
||
ハノイ歴史研究会トップページへ | ||
このページのトップへ |
||
Copyright (c) 2011 Hanoi Rekishi Kenkyukai All Rights Reserved |