銅鼓祠 Đền
Đồng Cổ
トゥイクエ通りから少し奥まったところに、銅鼓(ブロンズドラム)の神様を祀る銅鼓祠があります。この銅鼓神は、もともとハノイの南約140㎞、タインホア省ダンネー(Đan nê:丹泥)村の銅鼓山にある銅鼓祠に祀られていました。ハノイに銅鼓神が分祀されたのは今から約千年前のことで、次のような歴史・伝説が伝えられています。 1020年、リー(李)朝初代皇帝タイトー(Thái
Tổ:太祖)の命で長男リー・ファッ・マー(Lý Phật Mã:李佛瑪)が、戦いへ赴くためダンネーを通りかかった時、銅鼓山神が戦いの援助を申し出ました。リー・ファッ・マーは、銅鼓山神の加護により、敵を打ち破りました。1028年、リー・タイトーが崩御し、遺言に従ってリー・ファッ・マーが即位しようとした時、それを不満に思う三人の兄弟が陰謀を企てました。しかしその前日に、リー・ファッ・マーの夢に銅鼓山神が現われ予告していたので、陰謀は失敗に終わりました。リー・ファッ・マーは感謝を捧げ、銅鼓山神をハノイに分祀したのです。リー朝では、毎年陰暦4月4日に臣下が銅鼓祠に集まり、皇帝に背かぬことを神に誓い、もし背けば神に殺されてもかまわないと、忠誠を誓わせる会盟(かいめい)を行っていました。この儀礼は、後レー(黎)朝まで続けられました。 銅鼓とは、銅製の片面の太鼓で、紀元前5世紀頃からベトナム北部で作られ、富や権力の象徴として儀礼などに使われてきました。タインホアの銅鼓山に銅鼓神が祀られたのは、近くをマー河が流れ、水上交通の要所だったからです。古代の人々は、利便性の良い地を神聖視し、おそらく前レー(黎)朝(980~1009)以前からこの地に銅鼓を祀り、信仰していたと考えられます。そして、10世紀までに既に多くの人口をかかえ、領土を南へ広げようとしていたキン族は、ここを南進の拠点としました。重要な国策の南進を守護する銅鼓神の霊験は、会盟の誓いを守らせる権威になりました。 トゥイクエ通りにある“銅鼓霊祠”の表示のところを入っていくと、あたりは鬱蒼とした樹木に囲まれ、トーリック川に小さな橋が架かっています。橋の向こう側に、大きな三関門があり、門をくぐると正面に方亭があります。方亭には“銅鼓霊祠”の文字と、その左右の柱に、対連「全憑清化山東霊蹟著」「不朽黄龍城北仰仙傳」が掲げられています。それぞれ、「タインホア(清化)の山の東に霊験が顕れている」「不滅の龍城(タンロン城)の北に仙人を仰ぐ」という意味で、タンロンの都が、タインホアの山の銅鼓神によって栄えていることが詠われています。方亭の背後の建物は、拝堂と後堂に分かれていて、奥の後堂に銅鼓神が祀られています。通常参拝者は拝堂で参拝し、後堂は祭りの時のみ開けられます。毎年旧暦4月4日には、忠誠を誓う儀式を取り入れた祭が現在も行われ、地元の人々で大変賑わいます。千年の時を超えて尚、銅鼓神に対する信仰を持ち続ける人々の姿は、銅鼓に対するベトナム人の格別な想いが感じられます。銅鼓祠はまた、大学などの受験生が、合格祈願に訪れることも多いそうです。傍らには樹木遺産に指定された木があり、古社の雰囲気を高めています。
<旧暦4月4日の祭りの様子>
<住所> 353 Thụy
Khuê, Hà Nội |
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