フン・フン(馮興 Phùng Hưng)は、後に南漢軍を破ったゴー・クエンと同じドゥオンラム村出身で、父親は中国の支配に対して立ち上がったマイ・ハック・デー(Mai Hắc Đế 梅黒帝)の蜂起(722年)に加わったとされています。当時、唐は交州(現在のベトナム北部)を監督するために、安南都護府を置いていました。その都護であったカオ・チン・ビン(高正平)が民衆に重税を課し、圧政を行っているのに憤慨し、弟のフン・ハイ(Phùng Hải) と共にフン・フンは反乱軍を組織し、宋平(トンビンTống Bình 現在のハノイ市西北部)に攻め込みました。カオ・チン・ビンはその力を恐れ、病にかかり死んでしまったといいます。791年フン・フンは国土を解放し、自治政権機構を組織し始めました。しかしその7年後フン・フンは亡くなり、息子が跡を継ぎましたが、唐が新たに任命した都護に抗しきれず降伏しました。彼の功績を称え、人々は彼を布蓋大王(Bố Cái Đại Vương)と呼びました。布蓋とは“父母”という意味で、父母のごとき大王と崇めたのです。
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