ハイ バー・チュン Hai Bà Trưng (?~43)
ベトナムにおいて、約一千年(BC111~AD938)に及ぶ中国の支配期(北属期)には、時にその苛酷な圧政に対して数多くの反乱が起こりました。特に、うら若き姉妹によって起こされたハイ バー・チュンの乱はつとに有名です。ハイ バー・チュンは、二人(hai)のチュン(Trưng 徴)姉妹という意味で、bàは女性の敬称です。
BC111年、この頃ベトナムはアンズオン(安陽)王が治めたオーラック(甌駱)国が趙佗によって滅ぼされ、一時はその趙佗が南越王として君臨していました。しかし漢の武帝の時、これも滅び一帯は漢に属する領土になっていました。漢はベトナム領内に、交趾(トンキン地方)、九真(タインホア地方)、日南(タインホア以南、ハイバン峠付近まで)の3群を置き、官吏を派遣して統治していました。しかし多くの役人は私腹を肥やすことばかり考え、住民を搾取し、圧政を敷いて人々を苦しめていました。 もともとその地方には、ベトナム人による支配体制が敷かれ、貉王、貉候、貉将などと呼ばれる支配者層が土地を治めていたのですが、人々にとって、旧来の馴染んだ体制に取って替わった中国(漢)の役人たちの苛酷な仕打ちは到底受け入れられるものでななく、幾多の反乱を引き起こすもとになったのです。
AD40年、交趾郡メーリン県(現在のハノイ市北西部)では時の太主、蘇定が圧政を敷き、人々の反感を生んでいました。 貉将の娘、チュン・チャック(徴側 Trưng Trắc)は夫、ティ・サック(詩索 Thi Sách)が蘇定により不法に捕らえられ殺されたのに激怒し、ついに双子の妹チュン・ニ(徴弐 Trưng Nhị)と共に蜂起しました。この反乱に九真、日南、合浦の住民等もかねてからの憤懣を爆発させるように同調し、争乱は拡大していきました。 一時は65城も攻撃する勢いで、蘇定は中国に逃げ帰り、微側は自らを王と名乗り、つかの間の独立を手中にしたかにみえました。しかし大国、後漢の光武帝が一地方の反乱から独立を許すはずもなく、伏波将軍・馬援にこの乱を打つべく3万の軍と共にかの地へ向かわせたのでした。
AD42年、徴側軍の善戦もむなしく、ついに大軍の前に破れ去り、姉妹は金渓穴(タイグエンの西)まで逃げ延びましたが、漢軍に捕えられられることを潔しとせず、ハットモン(喝門)で入水し、果てたと伝えられています。 ハイ バー・チュンを祀る神社
・ハットモン(Đền Hát Môn)
参考資料: 『ベトナム人と日本人』 穴吹允著 1995 |
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