ホアロー刑務所

Nhà Tù Hỏa Lò

 
 撮影:2012年8月4日
 

この辺りには仏領期以前、フカイン(Phụ Khánh)村がありました。フカイン村は竈(かまど)作りを生業としていたため、ホアロー(Hỏa Lò ;かまどの意)村とも呼ばれていました。フランス植民地政府は村人を退去させ、村の寺やディン(村の集会所)を破壊または移転させ、この場所に刑務所や裁判所を建て、植民地政府に対する抵抗運動を弾圧する拠点としました。(村のチャンティエン寺(Chùa Chân Tiên)は、バーチエウ通りに移され、現存しています。)

ホアロー刑務所は1896年に起工し、1899年に使用されました。Maison Centrale(メゾンセントラル)”(フランス語で、刑務所の婉曲的な言い方。)と言いましたが、一般にはホアロー刑務所と呼ばれました。錠や蝶番などの金属類、ガラスなどはフランスから最高品質の物が輸入され、インドシナで最も堅固で大規模な刑務所の一つとなりました。東はホアロー通り、西はクアンスー通り、北はハイバーチュン通り、南はトニュオム通りに面していました。

勤王運動(18851896)やイエンテー反乱の指導者達、ドンキン義塾学校の創立者グエン・クエンや塾長ルオン・ヴァン・カン、ドンズー運動の指導者ファン・ボイ・チャウ、ベトナム国民党を率いたグエン・タイ・ホックなど多くの革命の志士たちが囚われ、拷問を受け、また処刑されました。

フランスが撤退しベトナム北部が解放された19541010日以降は、ベトナム政府によって使用され、196485日から1973329日までは、北ベトナムで撃ち落とされ捕虜とされたアメリカ人パイロット等が収容されました。最も有名なパイロットは、その後政治家となったジョン・マッケインです。

1993年にハノイタワー建設のためほとんどの部分が取り壊され、東側の一角が史跡・博物館として整備され公開されています。


   
 フランスから輸入され、
多くの革命の志士達の命を奪ったギロチン。
撮影:2014年12月5日
足を繋がれ、囚われた監房。
窓は格子で覆われている。
撮影:2012年8月4日
 


    
 現在の正面
撮影:2014年12月5日
堅固に造られた鉄製の正面扉
(館内展示)
撮影:2014年12月5日
 


  
 モモタマナの木
粗末な食事による栄養不足を補うために、
モモタマナの実を食べた。
撮影:2014年12月5日
 下水道の入り口
1945年3月11日~16日、
抗日運動や8月蜂起に参加するために、
囚人達が下水道を通って逃走した。
撮影:2014年12月5日

   
   
 

住所:1 Hỏa Lò, Hà Nội 


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