ホアンキエム(還剣)
Hồ Hoàn Kiếm

 
 ホアンキエム湖に浮かぶ亀の塔
撮影:2012年6月12日

 もともとこの湖は紅河の河道が変化してできたもので、15世紀の頃はハンチュオイ通りやロードゥック通りあたりまで延びる細長い入江でした。南端が紅河と繋がっていたため、ここでよく水軍が演習を行い「水軍湖」と呼ばれることもあったようです。
 では、いつ頃現在のような形になったのでしょうか?――1744年当時の権力者・チン()氏が湖の中央に一本の道(現ハンカイ通り)を造らせたことによります。南北に細長かった湖は二つに分断され、左望湖と呼ばれた北側の湖が残りました。

 ベトナムの歴史上に「ホアンキエム湖」周辺が登場するのは、そのチン氏が現われる後レー()朝からです。というのも昔この辺りは沼や池ばかりの湿地帯で、1010年に都がタンロン(ハノイ)に定まった頃もとても人の住めるような状態ではありませんでした。城は湖よりはるか西の方に造られ、特に湖の東側は15世紀以降も長い間田畑があるばかりで紅河の流れもすぐそこまで迫っていました(オペラハウス辺りが船着場)

 後レー朝後期(15331789)、チン氏がレー朝の皇帝をないがしろにし実権を握るようになって、状況は一変します。皇帝のいる宮城に対抗するかのように湖の西南に王府を築き、慶瑞宮、五龍楼と湖の周りをチン氏のための政務や遊覧の場に変えていきます。

 その後、フランス統治時代に多くの池や湿地が埋め立てられ、湖の周囲にちょうど今のような道路が造られました。植民地政府の主要な建物が次々と建てられ、20世紀初めにようやく現在の形に落ち着いたようです。

 こうして、ほぼ400年の年月を経て、いつしかホアンキエム湖はハノイの街の中心と見なされるようになったのです。

  

ホアンキエム(還剣)湖の伝説> 

(中国)の属領時代(14071427)、ベトナム人に対する重税や同化政策に反抗して各地で抗明運動が起こりました。タインホア省のラムソンで蜂起したレー・ロイ(黎利)は、10年にわたって民族独立の回復を目指し抗戦を続けました。途中、苦戦を強いられていた折、川で漁をしていた男が一本の刀身を引き上げます。何度捨てても網に掛かる不思議な刀身を携えて、その男はレー・ロイの軍に加わりその刀身を差し出します。レー・ロイが退却した森の中で見つけた剣の柄と組み合わせてみるとぴったりあったので、「この剣は神が授けたもの」と信じ、自らの腰に着けることにしました。それからというもの、戦は連戦連勝となり、遂に明からの独立を勝ち取ったのです。

 王位に就いて後、レー・ロイがホアンキエム湖を遊覧していると、突然1匹の大亀が姿を現わしました。王が剣を引き抜くと、亀はすぐさま剣を口にくわえ水の中に消え去ってしまったと言うのです。王は「あれはやはり国を救うために神が私に授けて下さった神剣で、神の使いの亀がそれを取り戻しに来たのだ。」と納得したというお話です。

 「剣を還した湖」という名の由来はこの伝説によるもので、ホーグォム(Hồ Gươm 剣湖)とも呼ばれています。

 
 玉山祠に展示されている亀の剥製
撮影:2011年7月25日

湖の中にある玉山祠には、1968年に発見された推定年齢4-500歳の大きな亀の剥製が展示されていて、この伝説をより印象深いものにしています。

 

 

 

 

参考資料: 『歩こうハノイ② ホアンキエム湖を歩こう』 ハノイ歴史研究会 2002


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