ホーチミン廟 Lăng Chu Tịch Hô Chí Minh
今もベトナム国民の父として敬愛され、ホーおじさんの名で親しまれているホーチミンの亡骸は、バーディン広場の奥のホーチミン廟に安置されています。ホーチミン廟は、ランバック(Lăng Bác)とも呼ばれています。(バック(Bác)はおじさんの意) 廟の外観にはグレーの御影石が使われています。底辺30メートルの正方形の基壇上の一辺に6本の柱が立ち、その上に方形の屋根を乗せた重量感のある建物です。廟の左右にはベトナムの国旗と共産党の旗が風にたなびいています。バーディン広場の周囲は高層建築が規制され、市街の喧騒とは別世界の威厳に満ちた空間が広がっています。 ホーチミンが亡くなったのは1969年9月2日でした。当時、南ベトナムと米国との戦争の最中で何もかもが不足して貧困に窮していた状況にもかかわらず、1945年9月2日にホーチミンがベトナム民主共和国の独立宣言をした演壇の位置に、ホーチミンの亡骸を祀る廟の建設が即座に決定されました。この大切な時期に指導者を失った痛手をベトナム民族の「聖地」のようなものを造ることで克服しようとしたのでしょうか。 廟のデザインは公募の上、選ばれたベトナム人建築家の案を基にソ連(当時)の技術者の意見を取り入れ、建設が始まって2年後の1975年に出来上がりました。遺体の防腐処理などの技術的な面は、ホーチミン廟のモデルにあたるレーニン廟を建てたソ連が支援しました。毎年秋頃約一ヶ月、防腐処置を施すため廟内見学はできなくなります。 ベトナムが置かれていた当時の状況から、こうしたホーチミンの遺志は実現されませんでしたが、死後40年を経ても絶えることのない参拝者の列を目の当たりにすると、この国にとって廟が果たしてきた意義は大きかったようです。 廟は月曜、金曜日を除く毎日訪れることができますが、時間は午前中に限られています。カメラの持ち込みは禁止されていて荷物預かり所に預け、預けた荷物は見学後、出口付近にある窓口で受け取ります。セキュリティーチェックも受けてから入ります。 廟の周りと内部では、制服の軍人が厳しい表情で警備にあたっています。こうした厳粛な雰囲気に加えて、廟内は空調がよく効いているせいか、入るや否やひんやりとして静寂に包まれた雰囲気に驚くことでしょう。私語も立ち止まる事も厳禁で、ただ、黙々と階段を上った先の部屋に向かいます。四人の軍人に警護されたガラスケースの中にホーチミンの亡骸が横たわっています。参観者はガラスケースの周りを4分の3周して外に出ます。 明るさが抑えられた薄暗い部屋の中で、中央の白い光がホーチミンの顔を浮き彫りにするかのように照らしています。参観者は、その透き通ったような穏やかな表情から、幾多の困難に直面する中で信念を貫き、清廉さを失わなかったホーチミンの生涯を感じ取ることができると思います。
彼のもっとも有名な演説は、亡くなる3年前、米国が北ベトナムに爆撃を開始したときのものです。「戦争は10年20年、あるいはそれ以上長く続くかもしれません。ハノイ、ハイフォン、その他の都市や企業も破壊されるでしょう。しかしベトナム人は断じて恐れません。独立と自由ほど尊いものはないのです。勝利の日が来たら、我が人民は我が国土をもっと素晴らしいものにするでしょう。(中略)ベトナム人民は必ず勝利します。」勝利を見ずに亡くなったホーチミンですが、その言葉は語り継がれ、死後もなお人々の心の中に生き続けています。ベトナムの祭日である建国記念日の9月2日には、朝から参拝する人の長蛇の列ができ、ホーチミン廟の前にある香炉には無数の線香が立てられています。 南北統一以降、ホーチミン廟の周りは政治と外交の中心地でありました。2012年現在、バーディン広場を挟んだ真向かいの場所は遺跡発掘調査の現場になっていますが、2002年まではバーディン会堂(国会議事堂)がありました。
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