タイ(西)

Hồ Tây

 
 馬蹄形のタイ湖。奥はホン河
撮影:2014年11月14日
場所:タイ湖南側より撮影
 

ハノイ中心部で最も大きく、市民の憩の場として親しまれているタイ湖は、もとはホン(Hồng:紅)河の一部でした。太古の昔、ホン河の流れは現在よりやや西寄りを通っていましたが、時代と共に東寄りに移り、やがてホン河から離れ湖になったと言われています。タイ湖の馬蹄形は、ホン河の蛇行した流れの名残りだったのです。タイ湖の面積は約526ha、深さは最深3mに達しています。

ホン河から離れ湖となったのがいつ頃のことかは明らかではありませんが、『西湖誌』※1によれば、紀元前3世紀以前のフン (雄)王朝の時代には、まだホン河の一部だったようです。アンズオン(An Dương:安陽)王の時代(BC257BC208)には湖として、ダップホイ(Đạp Hối:沓滙、水が集まる所の意)と呼ばれ、北属期の初期の頃(AD13C頃)はランバック(Lãng Bạc:浪泊、白い波の意)の名が登場します。

中国から独立した後のリー()朝時代(10101225)、タンロン(現ハノイ)に都が築かれると、湖の周りに土手が造られ、整備され始めました。湖はザムダム(Dâm Đàm:霪潭、 霧の沼の意)と呼ばれました。リー朝やチャン()朝(12261400)の皇帝は湖畔に離宮を建て、舟遊びに訪れました。現在鎮国寺が建つ小島には翠華宮が、キムリエン寺のある場所には慈華宮、トゥイクエ通り付近には瑞璋殿が建てられました。湖畔には多くの寺院や祠が建てられ、タイ湖はタンロン随一の景勝地となりました。周辺には“鳳凰の丘”や“麒麟の洲”など風流な名で呼ばれる小高い丘があり、湖の中には大小の丸い丘があったようです。

タイ湖と呼ばれるようになったのは、後レー()朝後期のこと、1573年に即位した第四代皇帝テートン(Thế Tông:世宗)の諱(いみな)がレー・ズイー・ダム(Lê Duy Đàm:黎維潭)で、ダムの名が重なるのを避けるため、タイ湖に変えられたと史料にあります。しかしタイ湖の呼称が使用され始めた時期はこれより早かったという説もあり、ザムダムとタイ湖が併用されていた時期もあったと思われます。タイ湖の名の由来は、湖が当時のタンロンの中心から見て西の方向に位置していたため、また中国浙江省にある“西湖”の名をとったのではないかとも言われています。一方、一般のベトナム人に知られる、タイ湖の古い呼び名は「金牛湖」や「ダム・サックカオ(đầm Xác Cáo:狐の死骸の沼)」です。これらはタイ湖に伝わる九尾の狐の伝説や金牛伝説に基づいた呼び名です。

昔からタイ湖周辺では、現在も行われている漁業や花木の栽培の他、絹織物や紙漉きなどの手工業、銅の鋳造など様々な産業が行われてきました。地理的に、需要のあるタンロン城や城下町(旧市街)に近接していたことや、東はホン河、西はティエンフー川※2、南はトーリック川にそれぞれ挟まれ、農業に適した広い土地がなかったこともその一因と考えられます。特に水を豊富に必要とする紙漉きや花木の栽培、銅の鋳造などは、湖周辺の地に適していたようです。しかし時代の変化と共に産業も変化を余儀なくされ、紙漉きや絹織物は現在では行われていません。

1『西湖誌(Tây Hồ Chí)』:タイ湖周辺の史跡をまとめた本。1962年チャン・タイン・ダム(Trần Thanh Đạm)訳。作者、成立年共に不明で、1850年の出来事の記述があることから、それ以降に書かれたものと推定される。オリジナルは漢字の手書き。

2ティエンフー(Thiên Phù)川: ホン河の支流で、かつてタイ湖の西岸を流れ、現在のトゥイクエ通りの西端付近でトーリック川に合流していた。1490年の洪徳版図に描かれているが、18世紀頃までには枯渇した。 








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