華 僑

 

華僑の海外移住の始まりは唐時代後半(9世紀)で、世界各地のチャイナタウンでは今でも「唐人街」の呼び名が残っています。国家の支配から逃れて海外に移住した彼らは、同族、同郷人に頼らざるを得ず、相互扶助で経済を発展させていきました。しかし居住地の国家からはむしろ抑圧され、当地の政治活動には参加せず経済活動に専念しました。

 

~ ベトナムの華僑 ~

ベトナムへも、中国で飢饉や戦乱が起こるたびに多くの中国人がその難を逃れて移住してきました。この地の生活が中国とそれほど違わず順応しやすかったこと、厳しい税制やビジネス規制がなく商売を始めやすかったことも移住を促しました。しかしベトナムでは、中国に支配された歴史をもつことから彼らへの監視を怠りませんでした。その一方で、華僑は、海の苦手なベトナム歴代王朝の海上における軍事活動に協力し、活躍しました。(乾海夫人の伝説)

17世紀、国際的に交易が活発化するとベトナムでも華僑の移住は増え、北部、中部(ホイアン)に中国人コミュニティが作られ始めます。一方南部では、広南グエン()氏が17世紀終わりにビエンホアやメコンデルタのミトーに中国人(明朝の遺臣)を入植させて先住クメール人勢力をおさえ、支配地の拡大を図りました。彼らがのちにベトナム最大のチャイナタウン、チョロンを形成します。南部の華僑は精米流通業や都市部のサービス業、作物の栽培業を主に行っていましたが、北部では小売や鉱山での労働が主な職業でした。

1920世紀の仏領時代、商売は既にベトナム全土にネットワークをもつ華僑に独占され、フランス政府は仏製品の関税を優遇することによってフランス商人を援助していました。華僑は商人として、支配者側(フランス)と生産者側(ベトナム)の間を媒介する役割を果たしていました。

1954年フランスが撤退しベトナムが南北に分かれると、北側が、国籍をとらなくても華僑にベトナム人と同様の権利を与えたのに対し、南側ではベトナム国籍の取得を強要しベトナム社会へ同化させます。1970年代にはいると中越関係は悪化し、1975年統一後の南部の社会主義化や、1978年の中越戦争により多くの華僑がベトナムを離れました。しかしドイモイ政策(1986)後、南部の中華街は再び活気を取り戻していきます。

 

~ ハノイでは ~

 

 15世紀ハノイでは、華僑はハンガン通りに住むよう指定されていました。明(中国)に支配された後に成立した後黎朝によって、いったん郊外のフンイエン省に移されますが、17世紀にはハノイに戻ることを許され、更にハンブオム通りにも住むようになりました。この二つの通りが最も華僑で賑わっていた通りです。19世紀初め、ハノイから中部のフエに遷都されると華僑に対する監視は緩くなり、付近のハンボー通り、福建通り(ラン・オン通り)へと広がっていきます。華僑は同郷、同業ごとに集まり、ハンガン通りやハンブオム通りは広東人が絹織物・茶の販売や輸出用の倉庫を持ち、ラン・オン通りでは福建人が上海や香港から輸入した漢方薬を取り扱い、ハンボー通りでは潮州人(中国広東省の一地方)が輸出入の委託代理店を経営していました。1873年、1882年にハノイはフランス軍の侵略に曝されましたが、フランス軍が華僑の協力を求めたため、華僑の住む地域はその奇禍にあうことはありませんでした。

 

19世紀以降、ベトナムの華僑人口は増大し、20世紀中頃から1970年代初めまでは約100万~150万人いたといわれ、その大半が南部に住んでいました。1989年の統計によると、ホーチミン市の華僑が約52万人、ハノイの華僑は5千人以下となっています。その後ベトナムの華僑は、南部を中心に100万人ほどまでに増えているようです。ホーチミン市の中華会館が歴史文化遺跡に認定されているのに対し、ハノイでは白馬祠を除き公開されていません。現在のハノイでは、かつての中華街の面影はわずかに残るばかりです。

 

※ 海外に移住した中国人またはその子孫で中国籍を持ったままの人を「華僑」と呼び、移住先の国の国籍を持つ人を「華人」と呼び区別する場合がありますが、ここでは、ベトナムへ移住した中国人およびその子孫の呼称を「華僑」に統一しています。


白馬祠へ


参考資料: 『歩こうハノイ⑤ 旧市街・白馬祠周辺を歩こう』 ハノイ歴史研究会 2006






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