オペラハウス側面 

寒食節
Tết Hàn Thực
旧暦3月3日

 
 バインチョーイ(Bánh Trôi)
撮影:2012年3月16日

寒食節はちょうど冬至の翌日から数えて105日目にあたり、中国では寒食を『百五』といっていたそうです。ベトナムでは旧暦の3月3日が寒食節で、その前日には「明日はバインチョーイとバインチャイーを作って食べましょう。」という市内放送が流れ、当日は家庭でバインチョーイとバインチャイーを作って食べる風習があります。街角では天秤棒の行商人や、この日だけの臨時の出店などが出ます。

 
 バインチャイー
(Bánh chay)
撮影:2012年3月24日

 バインチョーイは生姜の風味がある黒砂糖を包んだお団子で、トッピングに白ゴマをかけています。昔は黒砂糖ではなく、蓮の実の砂糖菓子を団子の中に入れていたそうです。バインチャイーは緑豆の餡が入っている団子をザボン(bưởiの香りがついたシロップと一緒に食べます。どちらの味も素朴で昔を思い出させるような味です。この日が近付くと市場では材料がセットになって売られています。

 この寒食節の由来は二千年ほど前の中国の春秋時代の潔癖な忠臣として知られている介子推の故事から来ているとされています。
言い伝えによると、晋国の君主・献公の息子重耳は、迫害されて国を追われる事になりました。大勢の家臣が辛い流浪の旅に耐えかねて重耳から離れていきましたが、介子推と数名だけが残り、重耳につき従っていました。介子推は重耳が肉を食べたいというと自分の腕の肉を切り取って煮て食べさせるぐらい忠義心の厚い人でした。
そののち重耳が晋国の君主・文公になったとき、それらの家臣に知行や爵位を与えました。しかしそれまで共に文公を支えてきた者たちが急に権勢争いを始めたのに嫌気がさして、介子推だけは何一つ論功を求めないと心に決めて、母と二人で綿山に隠居することにしました。
 その後、文公は介子推に側へ戻って来るように使いを出しましたが実現しなかったので、なんとしても下山させようと山に火を放ちました。火は3日3晩燃え続けて山全体を焼き尽くしました。文公が人を遣わして探しに行かせたところ、介子推母子は一本の枯木に抱きついたまま焼死していました。文公は心から介子推母子の死を悼み、綿山に厚く葬り、廟を建立し、介山と改名しました。そして、その命日には火を使うことを禁じ、事前に作っておいた冷たい食べ物を食べるように全国にお触れを出したといわれています。
これが寒食節となって受け継がれてきたようです。


   
寒食節の日、バインチョーイとバインチャイーの臨時の出店。
撮影:2013年4月12日(旧暦3月3日)
場所:Ngõ Cầu Ngỗ、ハノイ旧市街
 

    
 バインチャイー
もち米団子の中に、緑豆あんを包む。
バインチョーイ
もち米団子の中に、生姜味の角砂糖を包む。 

 
 茹でる。  

出来上がったバインチャイー。
バインチャイーのほうがバインチョーイより大きい。
 
茹であがったバインチョーイの上にゴマをつける。 






ハノイ歴史研究会トップページへ                  このページのトップへ


copyright (c) 2011 Hanoi Rekishi Kenkyukai All rights reserved 



inserted by FC2 system