カムティエン史跡

Di Tích Khâm Thiên

   
 カムティエン史跡の母子像
撮影:2012年6月19日
 

ここは、ハノイの町中に残るベトナム戦争の史跡の一つです。ベトナム戦争末期1972年のクリスマス爆撃で、1226日カムティエン地区は破壊され、多くの犠牲者が出ました。カムティエン通りには犠牲者を悼んで母子像が建てられています。母は亡くなった幼い子を抱き、米軍機の残骸を踏み怒りを表しています。母子像の頭上には、「カムティエン人民は侵略者アメリカを仇として恨む」と記されています。

 母子像に向かって右手には小さな史料館があります。ここの史料によると、カムティエン地区では、12262245分から爆撃が始まり、100種類もの爆弾が落とされたそうです。寺や病院、2000戸あまりの民家が破壊され、死者287人、負傷者266人、両親を亡くしたり、片親だけになってしまった子ども達は178人にも及びました。管理人の話によると、ここでは母子像のモデルになった母親と子供、その父親を含む7人が亡くなったそうです。その他資料館には、犠牲者や、爆撃後の破壊された街の写真などが展示されています。

 ここは普段は門に鍵がかけられ、母子像は通りからしか見ることはできませんが、1226日、旧暦1日と15日には開き、資料館も見学することができます。爆撃のあった1226日には、毎年慰霊式が行われているそうです。

       
母子像の頭上のプレート
撮影:2012年5月12日
 
母子像
撮影:2012年6月19日 

   
撮影:2006年2月23日  

所在地:47,49 Khâm Thiên, Hà Nội

 

クリスマス爆撃 

 ベトナム戦争では、最初の本格的な北爆が19652月から行われ、物資の輸送路、物資集積所、軍事施設、生産施設が破壊されました。1968年のテト攻勢後、アメリカはじめ、世界中で反戦運動が起こり、北爆を停止、パリで和平を探る会談が始まりました。しかし、パリ協定の締結を促進し北ベトナムに南進を断念させるため、19724月から再び北爆が行われます。B52爆撃機が中心のこの北爆は烈しいものでした。ハノイ南部の工業地区、駅、国道とハイフォン港が目標とされ、目標地区の周辺の建物が破壊されました。

 カムティエン史跡の史料館の史料によると、この北爆でB52が襲来した回数は726回、特にハノイ市だけに限ると444回もあり、最も爆撃が烈しく被害が大きかった1218日から30日の間には、1万トンもの爆弾が落とされたそうです。(2370トンという説もあります。『わかりやすいベトナム戦争』三野 正洋著)そして、死者は2380人、負傷者は1355人にのぼりました(異説もあり)。

 第二次世界大戦時の日本を振り返ってみると、1945310日の東京大空襲で、約300機のB29の焼夷弾による爆撃で約10万人が焼死しました。これと比べると、死傷者の数はかなり少ないのですが、これは、ハノイではかなり疎開が進んでいたこと、ホアンキエム湖周辺のハノイの中心部には爆弾が落下しなかったことによると考えられています。

 この1218日(1972年)からの12日間は、特に「クリスマス爆撃」と呼ばれています。この間アメリカ軍は、B52 15機を撃墜され、その後のパリ協定によって、ベトナム全土から撤退することになりました。ベトナム側はこの結果を勝利ととらえ、ディエンビエンフーの戦いになぞらえて、「空のディエンビエンフー」と呼んでいます。






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