金牛祠 Đền
Kim Ngưu
西湖鐘閣と記された西湖府の門を入って右側に行くと、金牛祠があります。この神社は、タイ湖に残っている金牛伝説に基づいて建てられました。 仏教を信仰していたリー(李)朝大越国のニャントン(Nhân
Tông:仁宗、在位1072~1127)は各地に多数の仏像を造る計画を立てましたが、国に黒銅が非常に少なかったので、インドで修業をして戻ってきた僧コンロ(Không Lộ:空路)に外国へ行って黒銅を求めてくるようにと命じました。 コンロは中国に行き、皇帝に小さな袋を見せて「この袋いっぱいの青銅と黒銅をください」とお願いすると皇帝は快く承知してくれました。案内された銅の入った倉庫は大きく、その前庭には金で作った大きな牛の像がありました。コンロは倉庫の中にある青銅や黒銅を、自分の持っている不思議な小袋に全部入れて、礼を言って帰って行きました。その日、倉庫内を調べた管理長官は銅が全て無くなっているのを見て驚きました。すぐに皇帝の兵士がコンロを追いかけましたが、捕まえることはできませんでした。 国に戻ってきたコンロに会った仁宗帝は大変喜んで、大越国のために安南の四器と言われる、報天塔の銅葺きの屋根、大仏、大鼎、大梵鐘を鋳造しました。大梵鐘の音は中国の銅庫の前庭に立つ金牛にまで聞こえました。金は銅の子供であるので、金牛は母が自分を呼んでいると思って、大越国までやってきて、梵鐘のそばで静かに座りました。 コンロはびっくりして、梵鐘を打つと世界中の金が大越国に集まり、各国と争いを起こすことになるので、梵鐘を湖底に沈めるのが一番と朝廷に提案し、山に登ってタイ湖に鐘を投げ捨てました。空中を飛んだ鐘に風が接し大音響が鳴りわたると、今まで不動だった金牛が目覚めてタイ湖に行き、湖水に入って行きました。 以上は『日本の中のベトナム』(後藤均平)で紹介されている伝説ですが、明空という僧が、中国の皇帝の子供の目の病を治したお礼に、銅をもらい、持ち帰って鐘を造ったという伝説もあります。 一方『昇龍古跡考』や『西湖誌』では、9世紀の安南都護・高駢の時代の話として、「山の神が金牛に姿を変え、川を下ってタイ湖へ入っていった。昔から金牛は、妖気を鎮め人々を守る霊験ある動物であった」と伝えています。 タイ湖の名の由来になったとも言われる中国・杭州にある西湖も、金牛湖の別名を持つそうで、金牛信仰は、中国南部からベトナム北部にかけて、古い時代から根付いていた信仰のようです。 この祠が実際いつ建てられたかは不明ですが、19世紀に編纂された『西湖誌』には、祠の存在が記されています。その後1947年の抗仏戦争で破壊されてしまいましたが、2000年に再建され、タンロン遷都1000年記念の2010年に新しく建て直されました。境内には、大きな釣鐘堂がつくられ、樹木遺産のガジュマルの木の下には、湖に向いて金色の親子の水牛の像が置かれています。
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