レー・ロイ
時代は15世紀のはじめ、ベトナムでは中国からの独立後400年余り、李朝と陳朝の両本格王朝を経て、国家の基盤整理が進み、民族的な自覚も大いに高まりました。しかし中国との国力との差は大きく、中国皇帝の政策によってベトナム国家の在立が左右される宿命に変わりはありませんでした。中国明王朝の第3代皇帝、成祖永楽帝によるベトナム占領と抵抗、独立回復の20年間もそんな宿命の一コマと言えるでしょう。 この雄才大略の大皇帝により、明の最盛期の国力の以てベトナム大経略に取りかかられては、ひとたまりもありません。陳朝滅亡後の攪乱に乗じて大軍をベトナムへ派遣した永楽帝は1407年にあっさりと占領、ベトナムは400年振りに中国の直轄領となってしまいました。しかし、ベトナム人がこの間に培った独立心と外的への反抗力は驚くべきものがありました。時を待たずして各地で明の支配に対する武力蜂起が始まりますが、この反乱の中心として活躍したのがレー・ロイ、後のレー・タイトー(黎太祖 Lê Thái Tổ )です。 彼はタインホア省ラムソンの土豪でした。平素「大丈夫この世に生を受けた以上、国難を救い大功を立て名を千載に残すべきである。何ぞこせこせと人に使われようか」と言って明が官職を以て誘うのに見向きもせず、山林に隠れては密かに同志を集め、ついに1418年、抗明の旗を挙げ、ベトナム独立回復運動の火蓋を切ったのです。 レー・ロイの活躍は、後方の山地に住居するタイ族等が彼に同情して支援したことによる面も大きかったのですが、ある時この内ラオス族の支援軍が裏切って明軍とともにレー・ロイを挟み撃ちにしたため、レー・ロイ軍は食糧難に陥り2年余りをただ草根類を食べるだけという危難に直面しました。この時レー・ロイは、手飼いの像4頭と乗馬を殺して部下を餐したのですが、勇敢な兵士たちもさすがに疲労甚だしく、1423年の時点で彼の抵抗運動も一旦頓挫することになります。 しかし、レー・ロイにとって幸運だったのは、翌年7月に明の永楽帝が没し、後継の洪熙帝、宣徳帝の両帝ともベトナム統治については極めて消極的だったことです。レー・ロイはこれに乗じて再び旗を上げ勢力を拡大していきます。彼の軍は各地の明軍を追い払って進撃、ついに明の10万の大軍を打ち破って東関城(今のハノイ)に包囲し、彼等を降伏させました。こうして1427年、レー・ロイは抗戦10年の後にようやく国家の統一と民族の独立とを回復したのです。翌年4月にレー・ロイは東京(ドンキン=ハノイ)で即位してレー・タイトー(黎太祖)と名乗り、国名を大越(ダイヴィエット)と号しました。これが後黎朝と呼ばれる王朝です。 レー・タイトーはその晩年を明との関係修復に費やしました。撃退したとは言え、やはり隣の大国からの認知なくしてベトナム国の安泰は望めず、明への使者を派遣し自身をベトナム王国として認めるよう求めました。この交渉中の1433年、レー・タイトーは50歳で没しました。後黎朝が明から認知され両国間の国交安定化が実現したのはレー・タイトーの没後4年、子の太宗の時代でした。 後黎朝は、その後時に盛衰はあっても、360年間にも亘り国土を統一し、ベトナム人はこの王朝を通じて民族の真価を発揮し文化を育成し、インドシナ東海岸における確固たる国家地盤を築くことになります。 レー・タイトーの陣営にあたって文事に功労のあったグエン・チャイ(阮薦)が帝に代って作った有名な勅語「平呉大誥」の中に「惟うに我大越の国は実に文献の邦たり、山川の封域は既に殊なり、南北の風俗亦異なる」という一節があります。ベトナムは中国の文教をよく採用しているが、地理、風俗ともに南北格差異があり、中国とベトナムは別の存在であると宣明しています。一度芽生えた民族の独立意識はもはや明の卓越した国力を傾けてもこれを抑止することは不可能だったのです。 今日、レー・ロイはベトナム人の人々にとって最も偉大な英雄の一人として親しまれています。亀と剣の伝説はベトナム人のみならず我々外国人にもポピュラーな話です。この伝説ゆかりのホアンキエム湖の西畔、北はルォン・バン・カン通りから南はバー・チェウ通りに至る約500mがレー・タイトー通りと名付けられており、通りの中ほどにはレー・タイトー記念堂があります。またタインホア省には、レー・ロイの功績を称えた石碑があり、そのレプリカが歴史博物館(ハノイ)に展示されています。 ホアンキエム湖 の伝説 レータイトー記念堂 参考文献: 『ベトナム民族小史』
松本信広
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