ルンケー城址 (ルイロウ城址 Thành Cổ Luy Lâu)
この城址は一般には、“交趾郡の太守シー・ニエップの居城であったルイロウ(羸)城である。”として、ルイロウ城と呼ばれています。しかし、考古学者西村昌也先生の研究では、文献上に登場する“ロンビエン(龍編)城”であったと提唱されています。当時の交趾郡を構成していた県として、ルイロウ県やロンビエン県などがあり(前漢の時代に10県が設置され、後漢の時代には12県あった。)、この城址が交趾郡のどの県に位置していたかなど、いくつか説があるようです。そのため、この頁では、現在の所在地の名をとった“ルンケー城址”をタイトルに置きました。 ハノイから紅河を渡り、国道5号線を経由してバクニン省の省道282号線に入り東に進むと、右側にザウ寺があります(ハノイ中心部から約1時間)。ザウ寺を通過してすぐ左にある“Thành Cổ Luy Lâu(ルイロウ古城)”の看板を左折し、住宅街をぬけていくと、道は城址のほぼ中央あたりへとつながっています。土塁は東西に長い長方形で、北約600m、南約500m、東西とも約310mの規模で、現在城址全体の半分近く(東側部分)は住宅地となり、全貌を眺めることはできませんが、残りの半分ほどは田畑が広がり、北側と西側に、現在も土塁の跡を確認することができます。周囲には、ザウ川を利用した濠の跡が今も残っているようです。 城址の中央からやや西寄りの地点に、シー・ニエップ(士燮 Sỹ Nhiếp;187~226)を祀る廟があります。シー・ニエップは、後漢末期※の交趾郡の太守(交趾郡を治めていた中国人)で、善政をしき教育に熱心であったため、ベトナムの民衆に慕われたといいます。シー・ニエップが漢字を導入したと伝えられ、“南交学祖”と言われますが、漢字はそれよりかなり前からベトナムに入ってきていたとの意見も多くあるそうです。 このように、ルンケー城は中国支配時代の城であったわけですが、この城址内で、1998年と2001年、西村先生によって銅鼓の鋳型片が発見されました。銅鼓は、ベトナム青銅器文化の象徴ですが、東南アジア各地で見られる祭器です。この発見は、銅鼓が確かにベトナムの地で造られていたことの証明になったほか、中国支配の拠点でベトナム文化が息づいていたという興味深い状況が見えてきたことになります。発掘現場は、シー・ニエップ廟の北側の地点です。 私達(ハノイ歴史研究会メンバー)が2014年7月17日に城址を訪れた時、シー・ニエップ廟付近では、ベトナム史上重要な城址を解明すべく、発掘作業が続けられていました。現在、城址は田畑や住宅に覆われ、見学できる史跡は廟のみですが、田畑の真ん中に立つと、そこは表の通りから隔てられ、1500年以上前の歴史に想いが広がる静かな空間です。 ※ 後漢(東漢) AD25~220
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