リー・タイトー Lý Thái Tổ 李太祖 (在位1010~1028) ~ ハノイの始祖 ~
ディン(丁)朝の王が死に、そこには幼い皇太子が残さました。そして宋(中国)は虎視眈眈とベトナムが弱体化するのを狙っていました。このまま幼い王が即位すれば国は揺らぎ、宋が攻め入ってくる。そう思った太后は自分の子供を王の座につけるよりも国家の安泰を願い、将軍レー・ホアン(黎垣)即ち、レー・ダイハイン(黎大行)に王座を明け渡しました。これが前レー(黎)朝の始まりです。しかし、前黎朝も永くは続きませんでした。黎大行が死に、後継者争いの末たった王がレー・ゴアチエウ(黎臥朝)。彼は権力を誇示し、快楽のみを求める愚帝でした。彼は好色で、酒に溺れ、無理難題を押し付け人が苦しみ悲鳴を上げるのを喜びました。彼がこの世から去った時、人々は安堵すると同時に今度こそ賢帝が立ち平和が続くことを心から望みました。 そこで推挙されたのがリー・コンウアン(李公蘊)です。彼はその時39歳、左親衛殿前指揮使(近衛軍司令官)として黎朝に仕えていました。彼が王に選ばれた一因に、熱心な仏教徒だったことが挙げられます。
リー・コンウアンは974年にバクニン省のコーファップ(古法)村に生まれ、幼い頃僧侶の養子に迎えられました。僧侶ヴァンハイン(万行)に師事し、仏教を学びました。そのことが官吏のみならず、僧侶たちからも推薦を受けることになったのです。これにより李朝歴代の王は一貫して仏教に帰依し、僧侶を重用することになります。 帝位についたリー・コンウアンはリー・タイトー(李太祖)と呼ばれ、1010年に都を山中の要害ホアルー(華閭)から、紅河デルタの中央、交通の要衝である元安南都護府の場所に移し、タンロン(昇龍)と名付けました。(現ハノイ)
現在のハノイに遷都しタンロンと命名したことについては、有名な伝説が残っています。リー・タイトーの船団がこの地に近づいた時、黄金の龍が現れ、天高く飛び立ちました。皇帝はこれを吉兆として遷都し、タンロンと名付けました。龍は王の象徴であり、タンロンがいつまでも栄えるようにとの願いがこめられています。
リー・タイトーは次々と寺を建立し、宋に朝貢して道蔵経を受け、他方では宋から南平王に封ぜられ、南方(現在のタインホアやゲアン)の地方勢力や北部山地の雲南系勢力を討伐するなど、聖俗両面で権力をかためました。こうして彼は、ベトナム初の長期王朝リー(李)朝(1010~1225)の礎を築いたのです。
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