|
リー・トゥォン・キエット
Lý Tường Kiệt
李常傑
(1019(36?)~ 1105)
~ベトナム至上初めての先制攻撃~
 |
リー・トゥォン・キエットのイラスト画
(ナムドン亭、ハノイ)
撮影:2009年4月25日 |
<李姓を賜った宦官>
リー・トゥォン・キエットは元々ゴー・トゥアン(Ngô Tuấn)といい、幼い頃から武道に秀で、戦陣図を見て戦略を練るのが好きだったようです。20歳で宦官となり、後宮内で働くことになり、李朝第三代皇帝リー・タイントン(Lý Thánh Tông 李聖宗)が即位してからは朝廷に入り王の側近として働くことを許されます。1069年に聖宗がチャンパへ向かった時にも、彼は先鋒将軍に指名され大きな功労をあげています。その功労を称え王は彼に李姓を下賜し、それから李常傑と呼ばれるようになります。
<宋への先制攻撃>
中国は宋の神宗帝の時代。聖宗の子、リー・ニャン・トン(Lý Nhân Tông 李仁宗)が即位した時はちょうど宋の神宗が王安石を抜擢して新法を行った時に当たっていました。1075年、宋の神宗は王安石の進言を聞き入れてベトナムの再征服を企てました。しかし、その陰謀を事前に察知した李常傑は、ベトナムの歴史上初めて中国からの攻撃を待つのではなく、先制攻撃を仕掛けたのです。
出兵に当たり、彼は軍を二つに分けました。第一軍は陸路を使って中国の邕州(南寧)にまっすぐ向かいました。李常傑直接指揮による第二軍は、海路を使って欽州、廉州(広東)に上陸しました。これは向かうところ敵なしの勢いで勝利を収めていきました。彼の軍は邕州城を包囲し、数日後これを陥れました。宋軍は十余万の死傷者を出し、李常傑軍は大勝利をおさめました。この結果を見て、彼は自軍を国へ戻し宋軍の新たな攻撃に備えました。
<カウ河の戦い 1076~77>
宋は翌年大軍を引き連れてベトナムへ押し寄せました。彼は如月江(今のカウ河)に防戦を張り、宋軍が侵攻してくるのを塞ぎました。如月河のほとりで、激烈な戦いが繰り広げられました。川を渡る術のない宋軍は陣営を置いて援軍を待ちました。その夜半、李常傑は有名な詩“南国山河”を詠じ、兵士達の士気を高めたといいます。
南国山河南帝居
截然定分在天書
如何逆虜来侵犯
汝等行看取敗虚
(和訳)南国(ベトナム)の山河は、南帝(ベトナム)の王の住むところ。
はっきりと定め分けると天の書にもある。
それをどうして逆虜(宋軍)がやって来て侵犯することが出来ようか。
おまえたちは、行って敗北の憂き目を見るがいい。
(漢越語訳)
“ Nam quốc sơn
hà ”
Nam quốc sơn
hà Nam đế cư,
Tiệt nhiên định
phận tại thiên thư.
Như hà nghịch
lỗ lai xâm phạm,
Nhữ đẳng hành
khan thủ bại hư.
(ベトナム語訳)
“ Sông núi nước
Nam”
Sông núi nước
Nam, vua Nam ở
Rành rành định phận tại sách trời
Cớ sao lũ giặc
sang xâm phạm?
Chúng bay sẽ
bị đánh tơi bời.
ついに決戦の時がやってきました。彼は河を越え敵陣を攻撃して壊滅的な打撃を与えました。宋軍は如月河で大敗を喫し、退いて西軍、富良江(今の紅河)に向かいましたが、ベトナム軍の抵抗にあい、川を渡ることができず兵を還しました。ベトナムの独立は守られたのです。
リー・トゥォンキエット通りは、ハノイ市中心部、レー・タイントン通りからレー・ズアン通りにかけて東西に伸びています。またリー・トゥオン・キエットは、ハノイ市内では、ナムドン亭※(Đình Nam Đồng)に祀られています。
 |
| リー・トゥオン・キエットを祀るナムドン亭 |
ナムドン亭 住所: 73 Nguyễn Lương Bằng, Hà Nội
※ 亭(ディン・Đình)とは、村の集会所兼神社で、村の創始者や職業の始祖、ゆかりの人物などが祀られます。
|