グエン・チャイ Nguyễn
Trãi 阮薦
グエン・チャイはベトナムが誇る政治家であり、かつ思想家、かつ文学者です。グエン・チャイの祖父は陳朝(1226~1400)の官僚として最高位までにのぼりつめた役人でした。また、父も陳朝、胡朝(1400~1407)に仕えた役人でした。グエン・チャイは陳朝末期の官僚の腐敗を目の当たりにし、その刷新を目標に掲げる胡朝に仕官しました。しかし、ベトナムは明(中国)の占領(1407~1427)されるところとなりました。グエン・チャイは明軍に逮捕され、囚われの身となります。 明からの独立を高らかに宣言したグエン・チャイの名文『平呉大誥(ビン・ゴ・ダイ・カオ)』(明を平らげたことを天下に告げる勅語)の中に、レー・ロイが撤退する明に対して船や馬、食糧を用意するなどして安全に故国に帰らせたという一筋があります。徹底抗戦を主張する将軍たちに、レー・ロイはグエン・チャイの意見に従い、「復讐したいのは世の常であるが、人殺しはよくない」と、これを認めませんでした。グエン・チャイはこれによって、ベトナム人の民族的気概がいかに堂々たるものがあったかを人々に知らしめたのです。 「おもうに我が大越国は実に文献の邦(文明の国)たり、山川の封域(領域)は既に深くして、南北(ベトナムと中国)の風俗また異なる、趙丁李陳(ベトナムの各王朝)の我が国を初めて造れるより、漢唐宋元(中国の各王朝)と各々一方に帝たり(それぞれに皇帝がいた)、強弱は時によりて不同ありといえども、豪傑は世に末だかつて乏しからず(英雄に事欠くことはなかった。) ベトナムの独立意識を示す文としてあまりにも有名な『平呉大誥』のくだりです。 この言葉によって、ベトナムの民族統一意識はいやおうなしに高まりました。グエン・チャイは、後レー(黎)朝成立後、内務大臣を務めます。彼はあくまでの官僚の腐敗を嫌いました。しかし、そのことが他の官僚からの妬みをかうことになり、追放されてしまいます。そして、ある日、後レー朝第二代皇帝レー・タイトン(黎太宗)がグエン・チャイの家を訪問した直後、急死したことを口実に、グエン・チャイを疎ましく思っていた官僚たちから王謀殺の嫌疑をかけられることになります。結局、英雄グエン・チャイは、一族300人ともども斬首されるという、非業の最期をとげました。
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