クアンチュォン門 Cửa Ô Quan Chưởng
ハンチェウ(Hàng Chiếu)通り、紅河の堤防近くにあるこの門は、かつて旧タンロン(ハノイ)の周囲に築かれた城塁上にあった数多くの門の一つです。城塁は1749年(後黎朝期)、高さ9m幅10mに土盛りされ、当時は16の城門がありました。旧市街に華人の町が形成された時代、城塁はハノイを囲んで、タンロンの都を洪水から守る役割も果たしていました。
門は幾度となく修復され、1817年に現在の形になりました。門の中央上部に楼閣が作られ、そこには漢字で「東河門」とあります。ドンハー(東河)は後黎朝時代の坊の一つ(現在のハンチェウ、タインハー、ダオ・ズイ・トゥーを含む地域)で、この門はドンハー坊の入り口でした。クアンチュォンはチュォンという役人の名前に由来しています。その人物については諸説があり、1873年11月20日、紅河から城門に侵攻してきたフランス軍に抵抗し、英雄的な最期を遂げた役人とも、阮朝時代、城門の管理を任された役人とも、後黎朝時代に城門の角に家を建てた役人ともいわれています。ハノイの街角を描いた画家ブイ・スアン・ファイ(Bùi Xuân Phái)がこの門をクアンチュォン門と称したので、ハノイではこの名が一般的です。
19世紀にはたくさんの門が作られ、オー(Ô)と呼ばれる小さな木戸まで入れると、その数は80あまりにものぼりました。
ハノイがフランスの統治下に入ると、フランスは池や湖を埋め立て新しい道を造り、都市の拡張を図りました。1886年城壁城門ともに破壊されましたが、クアンチュォン門だけは記念に残され現在にいたっています。
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