イエンタイ(安泰)亭

Đình Yên Thái

 
 

イエンタイ亭は、トゥイクエ通りの西端、ブオイ市場の向かい側にあります。亭の入口は、トゥイクエ通りに立つ大きな樹と街の喧騒に紛れて目立ちませんが、一歩中へ入ると、堂々とした三関門が迎えてくれます。三関門をくぐると、アパートやビルに囲まれた静かな空間が広がり、綺麗な朱色の拝堂が建っています。

イエンタイ亭はリー()朝時代に建てられました。これまで何度も修復、拡張され、建物自体は古くありませんが、約千年もの歴史があります。拝堂の向かって右側にある石碑には、修復の歴史が刻まれています。

この亭には、一組の夫婦が祀られています。バックハック(Bạch Hạc)出身のヴー・フック(Vũ Phục)と、トゥーリエム県ミンタオ(Minh Tảo)出身の妻の、油売りの夫婦です。12世紀初め、リー朝の王タントン(Thần Tông:神宗)が目の病気になり、治療をしても治りませんでした。占い師に「ティエンフー川※がトーリック川に流れ込んでいるのが原因であり、その川の合流する場所(現在のブオイ市場の辺り)に朝最初に通りかかった人を投げ込み、川を埋め立てれば病が治る」と告げられます。偶然油売りのヴー・フックが通りかかり、捕らえられ川に落とされ、妻もその後を追いました。王はその油売りの夫婦を祀り、この亭を建てたと言われています。朝廷が人を募り、夫婦が申し出て自ら身を投げたと書かれている文献もあります。

また、ヴー・フックとその妻と弟が、ティエンフー川とトーリック川の合流地点に堤防を築くのに貢献し、夫婦が亡くなった後、王は夫に「昭應扶運大王」、妻に「順征方唯公主」、弟に「招田大王」の名を与えたという言い伝えもあります。

 拝堂に入ってすぐの祭壇には、「昭應大王」の題額が掛けられています。拝堂奥には、中央左側にヴー・フック大王、中央右側に妻のフオン・ズン公主、左端には弟が祀られています。

また、イエンタイ亭の三関門の手前左側に建つヴー・フック廟には、この夫婦の墓があります。イエンタイ亭の祭礼は、毎年旧暦の210日と油売りの夫婦の命日である旧暦の1130日に行われています。

<拝観日> 旧暦1日、15
<住所>  596 Thụy Khuê, Hà Nội



   
 昭応大王を祀る
撮影:2013年4月24日
場所:イエンタイ亭、ハノイ
修復の歴史を刻む石碑
撮影:2013年4月24日
場所:イエンタイ亭、ハノイ


   
 夫婦のお墓の門
撮影:2014年7月23日
場所:イエンタイ亭、ハノイ
 

 

※ティエンフー(Thiên Phù)川: ホン河の支流で、かつてタイ湖の西岸を流れ、現在のトゥイクエ通りの西端付近でトーリック川に合流していた。1490年の洪徳版図に描かれているが、18世紀頃までには枯渇した。








ゾー紙
Giấy Dó

ゾー紙とは、沈丁花科のゾーという木の皮から作られるベトナムの伝統紙です。黄色味を帯びて柔らかく丈夫なゾー紙は、かつては朝廷の公文書や科挙試験の答案用紙などに用いられました。現在では、ドンホー版画の紙として親しまれています。

ベトナムの紙作りの歴史は正確には確認されていませんが、いくつかの文献に記述があります。中国の最古の植物事典『南方草木状』には、3世紀に大秦(東ローマ帝国)の使者が皇帝に献上する紙3万枚を交趾(北ベトナム)で購入したと書かれています。『大越史記全書』には、カオトン(Cao Tông:高宗)の時代(11761210)に中国へ贈られたベトナムの貢物の中に、象牙や金、絹と共に紙も含まれていたと記されています。

トゥイクエ通り西側に位置するイエンタイ村、ドンサー(Đông Xã:東社)村、ホーカウ(Hồ Khẩu:湖口)村は、700年以上前から紙作りで有名でした。紙作りの風景は、カーザオ(ca dao)と呼ばれる民謡にも唄われています。村に響き渡る杵の音が、多くの芸術家や詩人に影響を与えたと言われています。

Mịt mù khói tỏa ngàn sương 

(たちこめる朝もやの中)

Nhịp chày Yên Thái, mặt gương Tây Hồ

(西湖の水面に響くイエンタイの杵の音)

これらの村では、中国の蔡倫(50?~121?)が紙作りを教えたと伝わっています。蔡倫は中国後漢代の宦官で紙作りの祖です。しかし、研究者の間では、当時一人の宦官が紙作りを教える為にベトナムを訪れた可能性は低いと考えられています。

ドンサー亭(住所:442 Thụy Khuê)には、現在も紙作りの祖(蔡倫かどうかは不明)が祀られています。

この地域で紙作りが発展したのは、北に紅河、西にホン河の支流であるトーリック川があり、ベトナム北部のフート(Phú Thọ)省やタイグエン(Thái Nguyên)省などのいくつかの省でとれる原料や出来上がった紙を船で運ぶのに便利であった為です。そして、原料を浸したり洗ったりと水を使った工程が多い紙作りに適していたことが考えられます。

紙作りの工程は非常に複雑で、経験と技術が必要とされました。ゾーの木の皮をむき、トーリック川の水に13日浸します。水を切って皮を短く切り、石灰水に1日浸します。土鍋で一昼夜煮た後、よく洗い、再び石灰水に23日浸します。洗って水を切り、男性が石の臼で、杵で叩いて粉にします。粘り気が出るまで叩きます。次に粉を水に入れてかき混ぜ、女性が漉き枠を使って紙を漉きます。漉いた紙を重ねて積み上げ、煉瓦で押して水気を取ります。最後に、専用の炉や物干し竿を使って乾かします。これらの作業は重労働であり、特に杵で叩く作業は辛く大変なものでした。

ゾー紙の製造は全て手作業で行われ、植物を原料とし、道具も竹や木で作られました。その工程では化学物質は一切使われず、紙自体が酸性を帯びないため、長期保存が可能でした。村人達は技術改良を重ね、17世紀の初めには、朝廷の公文書を書く為の紙として使用されました。イエンタイ村では筆記用や印刷用の紙が、ホーカウ村とドンサー村ではドンホー版画等に使われる、幅の広いきめの細かい紙が作られました。

トゥイクエ通りの西側は、仏領時代に“紙村通り”と呼ばれていました。フランス人の間では有名な散歩道であり、彼らによって残された絵や写真は、当時の様子を現在に伝えています。

その後、1980年代初めには、イエンタイ村と周辺の地域では、紙作りは行われなくなります。高品質の紙の生産には、大量の水や炉で燃やす為の薪が必要であり、工業生産する紙とは競合できませんでした。また、重労働であった為、人が離れていったとも考えられます。現在はバクニン(Bắc Ninh)省のイエンフォン(Yên Phong)県の数軒がゾー紙の生産に携わっています。工程の中には、機械化されている部分もありますが、ゾーの木の皮をむいたり、紙を漉く作業等、昔ながらの光景も見ることができます。規模はとても小さくなってしまいましたが、紙作りの技術は、何世代にもわたり、現在まで受け継がれています。

 


ハノイ歴史研究会トップページへ
 このページのトップへ



Copyright (c) 2011 Hanoi Rekishi Kenkyukai All Rights Reserved



inserted by FC2 system