東京義塾広場
今から約100年前の1907年に、ハノイ市の旧市街、現在は時計屋や洋品店が並ぶハンダオ通りに、ドンキンギアトゥックという名の学校がありました。漢字表記は「東京義塾」。当時、北部ベトナムはドンキンまたはトンキン(東京)と呼ばれていました。東京義塾は、ハンダオ通り4番地、10番地にありました。また、ホアンキエム湖の北側の噴水のある広場は、かつて東京義塾が近くにあったことから1945年に「東京義塾広場」と名付けられました。
<20世紀初めの時代背景> 20世紀初めのベトナムは、フランス植民地政権の圧政の下で、植民地体制打倒、ベトナム独立回復をめざす運動が各地で繰り広げられていました。一方、当時の日本は明治維新を達成し、日清戦争、日露戦争に勝利したところで、独立をめざすアジアの国々から熱い視線を向けられていました。 <ドンズー(東遊運動) ・ ファン・ボイ・チャウ Phan Bội Châu>
皇族クォンデを会長とする「越南維新会」を結成したファン・ボイ・チャウは1904年、日本に軍事的援助を求めて渡りました。そして大隈重信、犬養毅等と会いましたが、日露戦争によって多数の将校が死傷し、莫大な軍事費に苦しむ日本は、軍事援助を与えることは出来ませんでした。しかし犬養らは、ベトナムの独立回復に急務である人材養成に協力することを告げました。その後、ベトナムからの出入国が禁止されていた困難な状況下、200人以上のベトナム人青年が日本に渡り、日本語、算術、地理、科学、物理などを学び、軍事教練を受けました。このような、日本の近代化に学ぼうとする運動を「ドンズー(東遊)運動」と言います。
ファン・ボイ・チャウと同世代のファン・チュウ・チンもまた、封建的指導層に属し科挙に合格し官吏となりましたが、これを辞職し、1906年に日本に渡り、そこで、ベトナムの独立にはヨーロッパ近代主義の実現が必要であり、人材育成が急務 東京義塾の「義塾」は日本の慶応義塾大学からとったと言われていますが、もともと中国語で「義塾」は慈善の義捐金で公益のために設けて無料で教育を施した学校を意味しました。この東京義塾もまた、学校内外の支持者の寄付で運営され、学生たちからは学費をとらず、文房具も支給していました。当初は、教師は無給だったそうです。昼間部、夜間部が設けられ、男女共学で、小学生から成年まで最盛期で1000人もの幅広い年齢層の学生がそれぞれの教室に分かれて学んでいました。仏領下、公文書は漢文の使用が禁止されクオックグー(現在のローマ字表記のベトナム語)が強制され、またほとんどのベトナム人に教育の機会は与えられていませんでした。そのような状況の中で設立された東京義塾では、長い間重要視されてきた儒教的教育を否定し、実学を重んじて、国学、自然科学、政治経済などの授業が漢文、フランス語、ベトナム語で行われました。東京義塾で使われた教科書の一つに『国民読本』があります。その中では、国民の教育を日本及びヨーロッパの近代化に学び、手本にしようとする強い意思が著されていて、特に日本に関わる箇所が多くあります。
東京義塾は単なる学校にとどまらず、教科書を作ったり、ヨーロッパの近代思想家の著作を翻訳したり、新聞を発行したりして、その主張が広く民衆に行き渡るような宣伝活動も行っていました。その影響はハノイ近郊に広まり、同様な趣旨の学校がいくつか生まれました。フランス植民地政府は、当初は容認していましたが、次第にその影響力が増大するのを恐れて、東京義塾の閉鎖を命じ、グエン・クエン等責任者を逮捕しました。東京義塾は、わずか九ヶ月足らずで終わりを告げました。 <日本から伝わった言葉> ここで注目したいのは、東京義塾、東遊運動を通じて日本から多くの新しい言葉がベトナムにもたらされたことです。日本が明治時代にヨーロッパの近代科学を取り込んだとき、原語を翻訳して漢字の熟語を造りましたが、東京義塾の関係者たちは「社会」「科学」「哲学」「現象」「主観」「客観」「衛生」などの和製漢字熟語をクォックグーに取り入れて、教えました。現在でも使われているベトナム語の熟語の中に、日本を故郷とするものがあることを大変興味深く感じます。このようにベトナムの近代化に、日本も重要な役割を果たしていたのです。
ファン・ボイ・チャウ(1867~1940)
ファン・チュウ・チン(1872~1926) ※ 東京義塾の設立・閉鎖月日には諸説あります。
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