関聖帝君(関羽)

 

関聖帝君(かんせいていくん)は、漢王朝末期から魏・呉・蜀の三国時代(2世紀末から3世紀初期)にかけて、中国に実在した武将関羽を神格化した名前です。関羽と聞いて歴史小説『三国志』を思い出される方も多いと思います。関羽が劉備と張飛を義兄弟として「桃園の契り」を交わし、劉備政権()樹立の為に大活躍した事は良く知られているので、ここでは神として祀られている関羽をご紹介しましょう。

中国歴代の王朝には、功臣に対してその功績に報いる為に爵位を贈る習慣があります。関羽には、宋・明・清と時代が進むにつれてより高い爵位が授けられ、17世紀明の時代に「三界伏魔大帝神威遠震天尊関聖帝君」に封じられ、正式に道教神となりました。

『三国志演義』によると、呉の軍勢に包囲され戦い抜いた挙句、力尽きて捉えられ、処刑された関羽は成仏できず、死後もその怨霊が愛馬赤兎馬にまたがって「わが首を返せ」と各地に出没したといわれます。玉泉山に現れたとき普静大師に「それなら、お前に殺された大勢の人々はどうなる」と諭され、悟りを得て成仏し、その後は悪霊や妖怪を退治したり、災害を予言するなど大いに霊験を現したそうです。それで仏教でも関羽は関帝菩薩、伽藍菩薩と呼ばれ、護法神(寺の守り神)として祀られています。


関羽は優れた武将であっただけでなく、記帳にも長けていて金銭出納簿や算盤を作ったといわれています。また、魏の捕虜になった折、多額の金銀を与えられたにもかかわらず、義兄劉備に対する関羽の忠誠は些かも揺るがなかった、との逸話が残っています。彼の義を重んじ誠を尽くし約束を守る精神、清潔な金銭感覚が商人にとって最も大切である事から、商売の神としても信仰されています。


中国で清が明に取って代った頃(17世紀中頃)、南に逃げた多くの明の人々がベトナムにも移住してきました。ハノイでも華僑が多く住んでいた旧市街地には関帝廟が作られ、関帝信仰も盛んになりました。忠義の考え方はベトナム人にも受け入れられ、ベトナムの多くの寺に関聖帝君(関羽)は祀られています。




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参考資料:
『道教の神々』 窪徳忠著 平河出版社 2000

『歩こうハノイ③ チュックバック湖周辺を歩こう 鎮国寺~鎮武観』 ハノイ歴史研究会 2002年 









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