クアンチュン(光中)は本名をグエン・ヴァン・フエ(阮文恵)またはグエン・フエ(阮恵)と言い、タイソン(西山)三兄弟のうちの三男で、1788年に自ら皇帝を名乗り、クアンチュン(光中)帝という名で呼ばれています。ベトナムのナポレオンとたとえられるほどの戦上手で、シャム、清と次々にベトナムに攻め入る外敵を徹底的に叩きのめしました。語り伝えられているところによると、声は割れ鐘のように大きく、眼光鋭く英知に長け、腕力にもすぐれていて100キロの米俵を担ぐことができるほどだった、ということです。戦略にすぐれ、軍律は厳しく、常に第一線に立って戦い、全軍の兵士たちは感激したといいます。ベトナムの歴史上、最も偉大な将軍の一人と言われています。
17~18世紀のベトナムは、後レー(黎)朝の末期でレー帝に実権はほとんどなく、ハノイを中心とする北部のチン(鄭)氏とフエ、ホイアンを中心とする中南部の広南グエン(阮)氏が支配し、およそ200年にわたって両氏の対立が続いていました。官僚達は政治を顧みず私利私欲に走り、農村は飢饉で荒廃し、農民、民衆はその危機的状況に苦しんでいました。 1771年、ベトナム中部のタイソン地区(現ビンディン省西部のタイソン県)でグエン・フエらグエン氏三兄弟が広南グエン氏を倒そうと蜂起しました。これが「タイソンの蜂起」と呼ばれています。 タイソンの反乱は周囲の諸民族が次々と参加し、その勢力を拡大していきました。1777年にグエン氏三兄弟は、南部に逃亡した広南グエン氏を追いつめ、ジャディン(現在のホーチミン市)を制圧。広南グエン氏がシャムとフランスに軍事援助を要請したため、1784年にシャム軍はメコンデルタに侵攻し、広南グエン氏軍とシャム軍の連合軍対タイソン軍との「ラックガム・ソアイムットの決戦」が始まりました。この戦いでグエン・フエは連合軍を撃破し、歴史的な大勝利を収めました。 その後1786年には、グエン氏三兄弟は現在のフエを占領し、チン氏勢力を北に押し戻し、タンロン(現在のハノイ)を占領しました。三兄弟のうち長男は自ら皇帝を名乗り中部に居を構え、三男のグエン・フエにはベトナム北部、次男にはベトナム南部を支配させました。 当時、名目上の存在であったレー朝のレー・チエウ・トン帝がグエン三兄弟の支配を嫌い、清に援軍を要請。1788年10月、清軍は20万人の兵力を動員してベトナムに侵攻しタンロン城に入城。これを知ったグエン・フエはレー帝を激しく非難し、自ら皇帝クアンチュンを名乗り10万人の兵力で北へ進撃しました。 <ドンダーの戦い> 12月26日、紅河デルタのニンビンで「10日以内に清を全滅させる。タンロンで春節を祝おうではないか。」と檄を飛ばして軍を鼓舞させると、瞬く間に清軍を壊滅しました。清軍の堡塁があったドンダーをめぐる戦いがもっとも激しいものでした。「ドンダーの戦い」に勝利したタイソン軍は、1789年陰暦1月5日にタンロン城に入りました。クアンチュンが檄を飛ばしたとおりに、1月7日にタイソン軍は勝利を祝ったのでした。
その後、クアンチュンは清の乾隆帝から安南国王に封じられ、一方、レー帝は清に亡命して後レー朝は滅びました。 しかし、1792年9月16日、クアンチュンは突然白血病でこの世を去りました。在位わずか4年、39歳という若さでした。 彼の治世は短いものでしたがその功績は大きく、経済、社会、文化の多方面にわたっています。長年の南北紛争により疲弊した農村を立て直して農業生産をもとにもどし、手工業、交易を奨励して商業の発展にも努めました。また、文化面では「チューノム(字喃)」の公用文への採用が重要な改革として有名です。
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