ホーチミンの生涯
(Hồ Chí Minh;胡志明)
2011年5月19日の『ベトナムニュース』(英字新聞)の一面トップは「ホーおじさんの121歳の誕生日に敬意を表する国家指導者たち」という見出しでホーチミン廟への献花の写真を掲載していました。そして6月5日の同紙、日曜版は「ホーおじさんの長い冒険−祖国の解放のためサイゴンからの旅立ち-100周年を祝う」特集を組みました。そこには裕福な中国人商人に変装したグエン・アイ・クオック(Nguyễn Ái Quốc;阮愛国)の写真が掲載され、「死を逃れ、国を救う」という見出しがついていました。没後42年経つ今も、ホーチミンがベトナムの人々に敬愛されていることの証左でしょう。神格化され、謎に満ちた部分もありますが、ここでは時系列に彼の生涯を追ってみましょう。
生い立ち
ホーチミンは1890年5月19日、ゲアン省ナムダン県キムリエン村(Nghệ An,Nam Đàn,Kim Liên)で生まれ、グエン・シン・クン(Nguễn Sinh Cung)と名付けられました。父親は貧しい儒学者でした。クンが4歳の時、父親が科挙試験の第一段階の郷試に合格し、息子の名をグエン・タッ・タイン(Nguễn Tất Thành)に改めました。その7年後、父親は第二段階の会試に合格、グエン朝(阮;Nguyễn 1802~1945)のフエ宮廷に勤めることになり、一家はフエへ移り住みました。
ホーチミンは父親の影響で幼少から論語などを学び、中国語を勉強していました。フエのクオック・ホック(Quốc Học;国学)という中等、高等学校ではフランス語も学んでいたようです。ここに在学中、中部で発生した農民の抗税運動(賦役納税に反対する運動)に共感し、農民代表のフランス語通訳を自らかってでて運動に参加したため、フランス当局に目を付けられて退学処分となりました。1910年には南部ファンティエット(Phan Thiết)の中学校で中国語、フランス語と体育を教えていましたが、1911年初頭、突然姿を消し、サイゴン(Sài Gòn)へ移りました。
広い世界への旅立ち
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1919年のホーチミン
ホーチミン博物館(ハノイ)所蔵写真 |
1911年(21歳)6月5日、フランス商船に見習いコックとして採用されたホーチミンはサイゴンの港から出航。7月6日、マルセイユに到着。カフェでコーヒーを注文した時、フランス人のボーイから初めて「ムッシュ(Monsieur)」と呼びかけられて感激したと、後に話しています。
9月15日、マルセイユにある植民地学校(植民地の官吏養成学校)への入学願書を提出した後、来たときと同じ船でいったんサイゴンに戻っています。役人を罷免されてコーチシナに移り、カンボジア国境近くのゴムのプランテーションの労働者や漢方薬の行商人として生活していた父親を捜すためでした。父と子が再会できたかどうかは不明です。コーチシナに数週間滞在した後、再び同じ船でマルセイユへ。インドシナ総督の推薦状がないことを理由に「植民地学校」の入学願書は受理されず、入学を断念します。商船オーナーの許可を得たホーチミンは、船員を続ける決心をします。マルセイユを出航した船はアルジェリア、モロッコ、インド、インドシナ、サウジアラビア、セネガル、マダガスカルなどを経てアメリカ大陸へ向かいました。リオデジャネイロ、ブエノスアイレスの後ニューヨークへ。ここで陸に上がった彼は数ヶ月、月給40ドルの労働者として働きました。
1913年にアメリカを離れ、英語を本格的に学ぶためイギリスに渡ります。学校の用務員として初めて雪かきを体験し、ロンドンのカールトンホテルでは皿洗いや給仕として働きました。後に厨房に勤務したおり、著名なシェフ、オーギュスト・エスコフィエ(Auguste Escoffier)の薫陶を受けたと伝えられています。
1914年、第一次世界大戦が勃発。こうした情勢の中ホーチミンは社会問題、政治問題への関心をより深めていきました。
解放の道への出発
1917年の年末、パリに戻ったホーチミンは敬愛していたファン・チュー・チン(Phan Chu Trinh)と再会し、交流を深め、政治活動への関与を一層加速していきます。この年の8月に起こった「ロシア革命」は、若きホーチミンに大きな影響を与えたはずです。
1919年の初め、フランス社会党に入党。同年、『安南愛国者協会』を設立し、その事務局長になります。そして6月、ヴェルサイユ講和会議に「安南人民の要求」という請願書を提出。この時、グエン・アイ・クオックの名で署名し、これ以降この名を名乗るようになりました。
1920年7月、フランス社会党機関紙に掲載されたレーニンの『民族問題と植民地問題に関するテーゼ』(フランス語訳)を読んだホーチミンは「これこそ私たちの解放の道だ!」と感激し、共産主義者への道を歩み出します。同年12月のフランス共産党結成にも参加しています。
1923年にロシアに渡り、翌年の『第5回国際共産大会(コミンテルン)』に出席し、アジア担当の常任委員に選出されます。こうして共産主義者となったホーチミンですが、彼にとっての主要な課題は共産社会の実現よりも民族解放、ベトナムのフランスからの独立でした。
1924年、中国の広州へ派遣され、翌年に志を同じくするベトナムの青年たちにより『ベトナム青年革命同志会』を広東で設立。この組織が後にベトナム共産党発足の足がかりとなりました。
1930年2月3日、統一大会を開催、4日間に及ぶ論議の末、「ベトナム共産党」の結成が合意され、ホーチミンが起草した党政治綱領、組織規約などが採択されました。党の中心的課題は「ベトナム革命」であり、当面の最重要課題は「ベトナムの独立」だと、民族主義的運動に力点が置かれていました。しかしこの主張に反対するグループがあり、同年10月に開催された第1回党中央委員会で初代書記長になったチャン・フー(Trần Phú)は党名を「インドシナ共産党」と改称し、党の路線を「インドシナ革命」と規定しました。
「死を逃れ、国を救う」新たな旅立ち
1931年6月6日、フランスの強い要請を受けた香港のイギリス警察はホーチミンを逮捕。容疑は「ソ連のスパイであり、英国領直轄植民地の転覆を企図している」というもので、直ちに仏領インドシナへ追放せよとの要請でした。この頃結核を患っていたホーチミンは、過酷な監獄の中で死亡したとの報道も出ていましたが、約1年半囚われの身となったのです。
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中国人商人を装ったホーチミン
2011年5月19日付け『Vietnam News』より |
当時彼の弁護をかってでたのが英国の法務官、フランシス・ロズビー(Francis Loseby)でした。彼はホーチミンを中国国籍の商人、宋文初だと主張。しかし、香港最高裁判所は9回に及ぶ審議のあと、仏領インドシナへの追放、つまり死刑を決定します。これに対しロズビーは直ちにロンドンの枢密院へ上訴。こうしてこの件は英国の枢密院で審議され、その結果英国の法律違反は認められず、「この中国人」には香港からの退去が申し渡されました。即時釈放となったホーチミンに対し、再び逮捕すべくフランスが動き回っているのを知ったロズビーは、ホーチミンを錦織のコートと帽子を付けた裕福な中国人商人に変装させたのです。1933年1月、香港の港を離れたプライベート客船には中国人秘書を伴ったホーチミンの姿がありました。二人の中国人商人はテト(旧正月)で賑わうアモイ港に上陸したわけです。
こうして生き延びたホーチミンはウラジオストックを経てモスクワへ戻りました。しかし民族解放はあくまで副次的と捉えるコミンテルンから異端視されていた彼は、1934年から4年間、「レーニン国際学校」や「民族植民地問題研究所」での学習生活を余儀なくされていたようです。それでも、多くの外国人が粛清される中、ホーチミンは生きて祖国に戻る事の出来た数少ない人物でした。これは、彼の並々ならぬ処世術など優れた能力の賜物でしょう。
祖国への帰還、独立への歩み
1938年には再び中国へ戻り、中国共産党と行動を共にしながらベトナムの活動家ファン・バン・ドン(Phạm Văn Đồng)やボー・グエン・ザップ(Võ Nguyên Giáp)等との接触を深めていました。ところが1939年9月、ドイツ軍がポーランドへ侵攻し第二次世界大戦が勃発。翌年には日本軍がインドシナへ進駐。情勢の急展開で1941年2月、ホーチミンは30年ぶりに祖国の地を踏みます。雲南省から国境を超えて、北部カオバン省(Cao Bằng)へ。石灰岩のカルスト台地が広がるパクボー(Pác Bó)の洞窟が彼らの秘密基地でした。同年5月19日、ここで開催された第八回党中央委員会は「ベトナム独立同盟(略称ベトミン;Việt Nam Độc Lập Đồng Minh Hội )」の結成を決議し、ホーチミンはその主席に就任。日本軍に対する武装闘争の準備に着手します。
1942年8月、中国共産党と連絡を取るため国境を越えたホーチミンは蒋介石軍の秘密警察に逮捕されてしまいました。この時、これまで名乗っていたグエン・アイ・クオックを捨て、ホーチミン(胡志明)という中国人らしい名前に変えたと言われています。
13か月間も各地の牢獄をたらい回しにされたあと、九死に一生を得て1944年パクボーに戻って来ます。同年12月、武装宣伝隊を発足させ、ボー・グエン・ザップを総司令官に任命。
日本軍の敗北が決定的になった1945年8月、ホーチミンは革命にとって、千載一遇の好機ととらえ、行動を開始。8月13日から15日にかけてハノイ北方のトゥエンクアン省タンチャオ(Tuyên Quang, Tân Trào)でインドシナ共産党大会を開き、全国的な総蜂起を決議します。15日、日本軍が無条件降伏すると、あらゆる政党、組織、少数民族代表を結集した国民大会を開催。「我が祖国の運命を決める時が来た。全国の愛国者諸君、我々の力によって我が民族を解放するために立ち上がろう。」と訴えました。こうしてベトミンの指導下でいわゆるベトナム8月革命が始まります。8月19日ハノイのオペラハウス前の広場(現在八月革命広場と
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独立宣言式
於:バーディン広場(ハノイ)
1945年9月2日 |
呼ばれる)は民衆に埋め尽くされました。その後フエ、サイゴンでも蜂起が発生。ベトミンはベトナム全土を掌握し、8月27日、「ベトナム民主共和国臨時政府」を樹立。そして8月30日阮朝の最後の皇帝バオダイ(Bảo Đại;保大 在位1926~1945)は退位しました。
9月2日、バーディン広場で開催された独立記念式典国民大会でホーチミンは初めて広場を埋め尽くした民衆の前に姿を現しました。簡素な四本柱の上の演台でベトナム民主共和国の独立を宣言したホーチミンは、国家主席兼首相に就任したのです。
祖国への熱い想いを残して
しかし、旧宗主国フランスはベトナム民主共和国を正当政府とは認めませんでした。米、英、ソ、中華民国をはじめとする連合国も承認しなかったのです。そんな中、フランス軍は9月末、サイゴンを占拠。翌年12月19日、ハノイで全面衝突。ホーチミンは全国民に抗戦を訴えました。これが7年間に渡る第一次インドシナ戦争の始まりです。民主共和国軍は平野部から撤兵して北部山岳地帯にこもって、抵抗を続けました。1951年2月、第2回党大会で「ベトナム労働党」へと組織改革を行います。
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1954年フランス撤退後のホーチミン
ホーチミン博物館(ハノイ)所蔵写真 |
ボー・グエン・ザップ率いる軍隊は、初期はゲリラ戦で対抗しましたが、次第に中国などの援助で重装備を整え、正規戦を挑んでいきます。そしてついに、1954年5月7日ディエンビエンフーのフランス軍司令基地を陥落させました。この結果、7月にはジュネーブで休戦協定が結ばれフランス軍は撤退しました。しかし闘争の後半にフランスが支援を求めたアメリカが、アジア地域での共産圏拡大阻止の目的で南部サイゴンを中心に干渉を始めます。1955年、アメリカの後押しによって南部に「ベトナム共和国」(サイゴン政権)が成立。こうしてベトナムは北緯17度線で南北に分断されるのです。
こうした情勢の中、ベトナム民主共和国の最高指導者として国を統治していたホーチミンは、第2回党大会のあと、日常的な党務は第一書記のチュオン・チン(Trường Chinh)に委ねていました。1955年9月には首相職をファン・バン・ドンに譲ります。65歳という年齢で健康上の問題もその背景にあったようです。また、分断国家となったベトナムの統一方法をめぐって、ジュネーブ協定の完全実施を主張するホーチミンと武力による解放闘争を主張するレー・ズアン(Lê Duẩn)が対立。1957年にレー・ズアンが書記長代行となリ、実質的権力を掌握していました。ホーチミンは党内人事や国内問題の決定にはほとんど関与せず、ソ連、中国などの友好国との交渉やアメリカ、フランスなどの交戦国との駆け引きといった外交問題を担当していました。また、国家主席として人民を励ますための集会やラジオ演説に専念していたようです。
1965年2月7日、アメリカ軍による北爆(「ベトナム民主共和国」への爆撃)でベトナム戦争は本格化します。1966年7月17日、ホーチミンはラジオで『抗米救国檄文』を発表し、「独立と自由ほど尊いものはない」と呼びかけました。国家元首としてベトナム人民を鼓舞し続けたホーチミンは1969年9月2日、突然の心臓発作によって倒れ、79歳の生涯を閉じました。奇しくもこの日は、彼がバーディン広場で高らかに「ベトナム民主共和国」の独立を宣言したその日でした。
ホーチミン関連の次の項目もご覧ください。
ホーチミンの家
ホーチミン廟
ホーチミン博物館
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