Nhà Sàn Bác Hồ
緑に囲まれた大統領府を右手に見ながら道を進むと、左手に黄色く塗られたいくつかの建物が見えてきます。この建物の一部が、ホーチミンが実際に住んでいた住居兼執務室です。1954年から1958年までこの建物で暮らしました。後方になった大統領府(当時は迎賓館でした)にホーチミンは住むのを断り、職員の住居であったこの場所を選んで住み始めました。アサヒカズラの花棚を通り抜けて正面に見えるのが住居です。「ハウス54」と呼ばれています。 住居の左手に別棟があり、ホーチミンが実際に使用した車が展示されています。一番左がポベーダ。1955年にソ連政府から贈られた高級車です。2台目がフランス製プジョー404。ニューカレドニアに住む越僑の贈り物です。ホーチミンの健康が衰えた晩年に使われたそうです。3台目がボルガ。これもソ連からの贈り物(1954年)で、ホーチミンが亡くなる1969年まで使用しました。
<ハウス54の部屋> 一番左が寝室です。ベッドは、上にゴザが敷いてあるだけの簡素なもので、ほかに洋服ダンスがひとつと小さなデスクがあるだけです。その隣の部屋は食堂です。小さなダイニングテーブルに食器が陳列されています。ホーチミンが実際に使ったものです。次は執務室です。デスクの壁の上にはレーニンとマルクスの肖像画が飾ってあります。その横には本箱があり、当時のまま残されています。またこの部屋に日本人形が飾られています。これは1966年に日越友好協会が訪問した際のお土産の品で、ホーチミンは大変お気に入りだったそうです。どの部屋にも天井扇が取り付けられています。
<高床式の家> 「ハウス54」を過ぎると、池の向こうに高床式の建物が見えてきます。池には大きな鯉が泳いでいます。ホーチミンが住んでいた当時から鯉は池で飼われていました。仕事を終えたホーチミンは毎日手を叩いて鯉を呼び寄せ、糠やパンきれを与えたそうです。また住居に近づくと周りにはジャスミンの木が植えられています。花の季節にここを訪ねるとほのかに香りがします。ホーチミンはこよなくジャスミンの花を愛したと伝えられています。 この高床式住居は、フランスで建築を学んだベトナム人グエン・ヴァン・ニン(Nguyễn Văn Ninh)により設計されたもので、ベトナムの伝統的な建築方法とフランスのモダンな様式を組み入れたシンプルで独創的な建築になっています。ホーチミンは建築家をオフィスに招き、家のデザインについて話し合いました。一人で住むのに充分なスペースであること、高級な材木は使用しないこと、階段も同時に二人歩けるほどの幅で充分であることなど、華美になることを嫌いました。建設が完了した年月日が、建物の正面に<17.5.1958>とあります。ホーチミンの誕生日は5月19日ですから、誕生日に間に合うようにこの新しい住居は建てられたのです。 高床式ですから、1階には壁がなく、広いスペースに大きなテーブルセットが置いてあります。来客を迎えたり、またミーティングルームとして使用しました。隅には当時使われていた電話が3台とヘルメットが当時のまま残されています。風通しがよいのでしょう、会議や来客がない時には、横になれる籐の長いすが隅においてあります。また、観賞用の水槽も当時からありました。 外側の階段から2階に上がります。これはホーチミンの死後取り付けられたもので、その年月日が階段の脇に<15.2.1977>と書かれています。 2階には書斎と寝室の2部屋があるだけで、どちらも質素な印象を受けます。風通しをよくするためか、2部屋とも両側に窓が取り付けられています。また、出入口の扉がやはり両面にあり、どちらからも張り巡らされた廊下に出ることができる設計になっています。また夏の日除け対策として両階共に竹の簾で覆われています。
食堂は以前の部屋を使用しました。時に洪水で池の水があふれ、新住居から旧住居の食堂までいくのは大変なことであったと思いますが、補佐役が「食事を運びましょう。」と伝えても、ホーチミンは洪水の中、食堂に向かったと伝えられています。 建物の周りには多くの樹木、果樹があり、美しく手入れされています。ホーチミンはテト(旧正月)に植樹をする運動を勧めていました。自ら先頭に立ち、早朝また仕事の後毎日のように植木の手入れをしました。冬の寒い時期には植木に藁をかぶせたり、おがくずを撒いたり手入れに余念がありませんでした。そのおかげで今、樹木や果樹が多く残されています。
<マンゴーの道> 高床式住居に入る手前右側に、<マンゴーの道(Đường Xoài)>があります。両脇にマンゴーの木が植えられていることから名前がつけられています。道幅5mと広く長さも200mあり、ヨーロッパのプロムナードに迷い込んだ錯覚に陥ります。ここはホーチミンが毎朝夕仕事に行くために通る道でもありました。 ずっと道を進むと、左手にブーゲンビリアの花棚があり、その花の下でホーチミンが一人書き物をしている、そんな光景に出会います。タイムスリップして本当にここにホーチミンがいるのでは、と錯覚してしまいそうな、そんな銅像です。
マンゴーの道の右手は大統領府の裏手になります。実際、ホーチミンはこの裏手から大統領府に出入りしていました。そんなホーチミンの姿を想像しながらこのマンゴーの道を歩くのは楽しいひと時です。大統領府の敷地は、フンヴォン通り(Hùng Vương)がホアンホアタム通り(Hoàng Hoa Thắm)に交わるところまで続き、いかに敷地が広いかがうかがえます。 ホーチミンは1954年から亡くなる1969年まで15年間この敷地内で暮らしましたが、この間に歴史的に重大な出来事が多々ありました。1954年5月、ディエンビエンフーの戦い(Chiến dịch Điện Biên Phủ)に敗れたフランス軍は完全撤退。7月にインドシナに関するジュネーブ協定が締結されています。実際ホーチミンがここに住み始めたのは12月ですが、大きな仕事を終えて移り住んだのでした。そして1960年にはベトナム戦争が勃発。またこの間、ホーチミンはベトナム民主共和国初代首相(1945.9.2~1955.9.20)、ベトナム労働党中央委員会主席(1951.2.19~1969.9.2)、ベトナム労働党中央委員会第一書記(1956.11.1~1960.9.10)と、いくつもの要職に就いています。目まぐるしく動く情勢、それと共に動くホーチミン。そんな中でも、この緑豊かなこの敷地は変わることなく静かで穏やかな佇まいであったに違いありません。そして今でもその静けさと落ち着きは変わりなく続いています。 ホーチミン関連の次の項目もご覧ください。 ホーチミンの生涯 ホーチミン廟 ホーチミン博物館 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ハノイ歴史研究会トップページへ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
このページのトップへ |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
Copyright (c) 2011 Hanoi Rekishi Kenkyukai All Rights Reserved |