ゴー・クエン Ngô Quyền 呉権 (898~944) ~中国から独立を勝ち取った名将~
約一千年におよぶ中国支配から北部ベトナムの独立を達成したゴー・クエンは、歴史的な重さから見ても、戦いぶりのかっこよさからいってもヒーローの中のヒーローの一人ではないかと思います。 ゴー・クエンは898年、ハノイ郊外のドウォンラム(Đường Lâm唐林)村で生まれました。義父でありクック(曲)氏(注)の重臣であった
ズオン・ディン・ゲ(Dương Đình Ngệ 揚廷芸)が北部ベトナムの豪族キエウ・コン・ティエン(Kiều Công Tiễn 矯公羨)に敗れると民衆の不満はつのり、キエウ(Kiều)矯氏はそれを恐れ南漢に助けを求めました。これに対し、娘婿のゴー・クエンは各地の豪族をまとめ、「打倒矯氏・南漢」の旗を掲げました。(南漢は唐が滅びた後、五代十国時代に広東地方に建国した国で、日本では平安時代の中頃に当たる。) 939年、南漢軍は海路ベトナムに攻めてきます。有名なバックダンザン(Bạch Đằng Giang白藤江)の戦いの始まりです。バックダンザンはハイフォンのやや北側に注いでいる河で、黄土色の水がかなり早く流れている河は「白い藤の河」という字から受ける清楚な名前のイメージより「バックダンザン」というベトナム語の強い音から受ける感じのほうが似合っているように思えます。過去になんども戦場になった河です。ゴー・クエンは干潮のとき、リム(鉄木)と言われる固い木を川床に何本も埋め込みました。潮が満ちて南漢軍が河口から上ってくると、呉軍は逃げると見せかけて上流に誘い込み、潮が引いてきたとき一気に鉄木を埋めた所へ追い立て、南漢軍の船の多くにダメージを与えたのです。大軍でしかも装備の整った大船団と戦うとき、どうしたら勝利を勝ち取れるのか、ゴー・クエンが練りに練った秘策だったに違いない杭は、長さ1.5m~3m近くもあります。ちょうど鉄道の枕木のような感じで、かなり重いものだと思われます。潮が引いている時とはいえ、流れの速い川の中でこれを何本も埋め込んだ兵士達の気力、気迫が伝わってくるような気がします。ゴー・クエンの大勝利は350年の後、元がベトナムに攻めて来た時の手本となり、チャン・フン・ダオによって、蒙古軍は南漢軍と同じように鉄木に船をやられベトナムに勝利をもたらすことになるのです。
ハノイ市内のゴークエン通りは、北は紅河岸近く、ハンボイ(Hàng Vôi)通りの南端からゴーティニャム(Ngô Thì Nhậm)通りの北端までを北東から南へ抜ける通りです。外国人にはなじみの深いメトロポールホテルや、いくつもの堂々としたフランス風の建物が並びます。国家銀行や、迎賓館、労働省、商業省、インドネシア大使館等々です。ハノイの中心地にあって、居並ぶ重要な機関の建物を見るとき、ベトナムの人々の呉権を尊敬する気持ちがこの通りの命名に現れているような気がします。 ゴー・クエンは中国から独立を勝ち取った後、自ら王となりコーロア(Cổ Loa)に都を定めますが、僅か6年の在位(939~944)、47歳で没します。その後、十二使君と言われる諸豪族抗争の時代となっていきます。
(注)唐代末、北部ベトナムは静海節度使という職がおかれていた。906年、豪族クックトアズ(曲承祐)が中国からの派遣官に代わって、唐滅亡の混乱に乗じ自ら節度使を名乗った。三代目のクックトアミー(曲承美)は930年、南漢に滅ぼされるが、ゴー・クエンの義父、ズオン・ディン・ゲ(揚廷芸)はクックトアミー(曲承美)の将であった。
参考文献: 『ベトナム人と日本人』 穴吹允著
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